一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

秋の色


 この季節がやってきたか。

 大北農園から、ご丹精の茄子が届いた。この秋の先頭走者だ。大北農園については、これまでにいく度も書いたが、嬉しいしありがたいから今日も書く。
 旧い学友の大北君はリタイア後、趣味と健康維持とを兼ねて家庭菜園に力を注いできた。手間や経費もひととおりではなかろうから、家計の足しというわけにはゆくまいが、食卓の彩りと話題性の点では、功徳はまさしく一石三鳥四鳥。まことにもって奥様孝行の老後といえる。
 昨年はたしか、隣接する畑の持主がたと共同で、堆肥をトラック買いして山分けしたそうだから、畑土への思い入れもいっそう深くなりまさる心境なのだろう。

 「秋茄子は嫁に食わすな」と諺にあるが、ひとり身の私はすべて自分でいただく。ところでこの「秋茄子」だが――。
 あまりにも美味につき、嫁に食われるのは口惜しいという、意地悪な姑の憎まれ口というのが、もっとも広まった解釈だ。それほどに美味い。食べ過ぎると躰を冷す原因となり、嫁の下半身の健康に障るとの解釈もある。
 かてて加えて、実が豊かで種子が少ないことから、子宝に恵まれぬと困るからという、都市伝説といおうか愚かな連想といおうか、今日的に申せばオカルト的な解釈もある。もっともこれには逆もあって、秋茄子を完熟させると冬越し・翌春のために、他の季節にも増して充実した種子をたくさん形成する。よって産児制限を企てる子だくさんの家庭にとっては、これ以上の子宝を願い下げにしたくて、嫁に食わせないのだとの説もある。

 しまい忘れた食糧を容赦なく食い荒す家鼠を「君が嫁」と称んだ古例があるという。茄子というものは塩漬にしようが粕漬にしようが、棚に放置すれば鼠が曳いてゆくから、けっして保管に油断はならぬ、という教えが古い用例のようだ。
 ごく生真面目で日々の実用に即した家計訓だったものが、近世の地口・洒落大好き庶民の頓知によって、次つぎに新解釈を産んでいったものだろうか。結果として、意味よりは語呂・耳障りにおいて絶妙な慣用句が形成される。手間暇かかっているのだ。
 外国語に翻訳しにくい。かような例を、国語の深層部分といい、言語の文化的側面というのだろう。

 拙宅裏手の児童公園では、定連の子どもたちとは似ても似つかぬ声が飛び交っている。鳶の若い衆が寄って作業中だ。丸太(ではなく現代は鉄パイプ)組にヨシズ張り回しの小屋建てである。
 今週末、九日十日は、神社の祭礼だ。この小屋には町内の神輿が安置される。練り歩いた神輿が戻ってきて、休む処だ。明日にはいく張りかのテントが張られ、パイプ椅子やベンチが並べられるだろう。
 明後日ともなれば、まだこんなに生残ってたかというほど多くの年寄りが、浴衣姿でズラリと雁首揃えることだろう。あいつ生きていやがったかという顔もあれば、オイオイ視違えたぜ、様変りがひどかろうという顔もある。昔たしかに遊んだ顔だが、はて誰だったっけかと思い出せないのも多い。顔役然としているのは、たいてい小僧扱いした連中だ。忙しそうな世話役たちは、二世さんか娘婿さんだ。

 わが町の祭礼は九月第二週末と決っている。二百十日だの二百二十日だのが近いから、雨祭と称ばれる。二日とも好天に恵まれたりすれば、「今年は晴れましたねえ」がご近所とのご挨拶となる。今年は台風接近情報で、いわばレギュラーだ。
 神社境内と駅周辺の路地とは、身動きとれぬほどの賑いとなる。もう何年も渦中へは出掛けていない。少し離れたメインストリートに、近隣町内の神輿が勢揃いして行列で練り歩くフィナーレの時間帯に、見物に出るだけである。