一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ゴキゲンだった頃


 加瀬君は写真部員だった。

 校舎の正面玄関から正門への並木道があって、脇には前庭があった。食堂へと斜めに突っきって行く通り道だった。午後になるとテニス部員が数人がかりで、巨きな鉄のローラーを曳いて、往復した。さほど敷地の広くない高校にあっては、前庭は貴重な空間で、放課後はテニスコートに早変りし、テニス部員の練習場となるのだ。
 テニス部員以外の生徒たちは、昼休みには並木を回って食堂へは行かず、「三角形の二辺の和」とか云いながら、前庭を踏み荒した。それをテニス部員は、毎日ローラーで固めて歩いた。


 前庭の東側は小高い急斜面になっていて、雑木林だった。斜面の根方には、コンクリートの枠組みに濃い緑色の板戸がはまった、ハモニカ長屋のような部屋の列が並んでいた。防空壕の跡地みたいだった。一様に天井低く、薄暗くじめじめした各部屋は、どれも部室となっていて、ひとつが写真部の部室だった。
 ある日、加瀬君が「お前の写真、大きくしてやろうか」と云ってくれた。当時いち早くビートルズへの熱狂から脱け出して、モダンジャズに走っていた私は、『スイングジャーナル』の巻頭グラビアを手元のオートフォーカスで複写して、お気に入りのジャズメンの肖像写真を並べて悦んでいたのである。

 防空壕然とした写真部の部室に、初めて入れてもらった。嗅いだことのない強烈な匂いがした。怪しげな赤い豆ランプの下で、暗室作業がおこなわれた。
 巨大な顕微鏡のような感光機があった。上が光源で下が印画紙を設置する平滑なスチール台だ。印画紙に光沢・半光沢・微粒面とがあると、初めて教えられた。ははぁ「艶消し」なんぞと云ってきたのはこれか、と思った。
 「定着液の温度が足りん。手を入れといてくれ」加瀬君から命じられるままに、バットに張られた液体に両手首から先を突っこみ、何分間もじっとしていた。
 定着が済んだ印画紙を、平滑なスチール面に置き、上から布を被せて乾燥させるのだが、そのさい印画紙の感光面を布側でなくスチール面側に伏せてしまうと、微粒面印画紙の表面粒子がつぶれて、光沢印画紙と同様の仕上りになってしまう。面白い経験だった。
 薄暗い背景の中央に黒人ジャズマンが白い歯を見せて笑っているような、どれもこれも黒っぽい写真が、四つ切、六つ切りと次つぎ仕上ってきた。驚嘆しながらも、加瀬君に心底から感謝したものだった。

 お互い素行において自由な側に属する生徒だったから、近しい気分は抱いていたものの、彼は文学少年というわけではなく、繁く行動を共にする同じグループというわけではなかった。卒業後に顔を合せる機会はなかった。
 先年共通の学友の通夜で、半世紀ぶりに再会した。挨拶代りに、あの日の暗室作業の話題を振ってみたところ、
 「あったなぁ、そういうことが」という応えだった。

 亡くなったのは九月九日、死因は白血病とのことだ。今日が葬儀だという。きわめて懐かしい男のひとりだ。が、卒業後にはたった一度、学友の通夜で挨拶したのみだ。いかがしたものであろうか。
 しばし沈思のうえ、葬儀への参列は遠慮させてもらうことにした。分際を守って、草むしりしながら、加瀬君の冥福を祈ることにする。訃報の連絡メールをくれた仲間には、さよう返信した。