一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

任ではない

 この人の作品を語るのは、自分の任ではないと思える作家がある。

 四十二歳のとき、ワーレンベルク症候群という若年性脳梗塞の発作を起して、一か月ばかり入院した。今はないが、飯田橋にあった日本医科大学付属第一病院だ。危険な時期を脱してリハビリ以外にすることもない日々には、『吉川幸次郎全集』第四巻(筑摩書房)と荻生徂徠論語徴』(平凡社東洋文庫)とを枕元に持込んで、『論語』註釈を読んで過した。
 気安くお喋りをする看護師のひとりが「へえ、そういう人だったんだ。向うの部屋にも、なんだか作家さんだとかいう人がいるよ」と、教えてくれた。自称作家なんぞ星の数ほどいる。気にも留めずに、「そうかい」と聴き流しておいた。

 病棟では四人部屋にいたが、それぞれ病状もまちまちで、退屈することも多く、『吉川全集』一冊と辞書とを抱えて、静かに腰を降ろせる場所を索めて院内を徘徊した。外来診療の時間が過ぎて人波去った待合室へ降りてもみた。屋上の物干し場へ揚って、風に踊る洗濯物を眺めながら読書したこともあった。病室から近い手軽な場所は、階段踊り場の長椅子と、エレベーターホールの長椅子だった。
 あるとき長椅子で本を開いていると、家族連れが前と通って、エレベーターを待っていた。痩せぎすなスキンヘッドの男と、子どもたちだった。なにげなく顔をあげた私は、スキンヘッドの男と眼が合い、アッと思った。端正な顔立ちではあったが、こちらを射抜くような、詰問してくるような、含みのある鋭い眼だった。気の好い看護師のお嬢さんが云ってた「作家さん」というのは、この男にちがいないと咄嗟に確信した。
 子どもは愉しげな声を挙げた。男は柔和な表情を見せたが、笑いはしなかった。「さっさと乗りな」というように子どもを急かせて、エレベーターに乗っていった。長い面会時間でさんざん話し込んだ末に家族を見送る雰囲気が漂っていたところをみると、日曜日だったのかもしれない。

 「誰なんだろう?」三つ四つ向うの部屋に入院しているという作家が、かすかに気になった。が、「なんて人」と看護師に訊ねる気にまではならなかった。
 退院間近となったある日、リハビリ室へ向う途中のとある部屋で、扉の四辺や四隅から窓の桟までを幅広いビニールテープで密閉された部屋があった。内側では消毒剤が使用されている証拠だ。病室から死者が出たことを示しているのだろう。
 桐山 襲(かさね)が死んだと、報道で知った。しかもこの病院で。私は『パルチザン伝説』をすでに読んではいた。だが『「パルチザン伝説」事件』は未見で、事件の経緯についても知ってはいなかった。桐山の顔も知らなかった。かりに顔写真を観たことがあったとしても、闘病でおもやつれし、抗がん剤の副作用で脱毛状態だった彼を、判らなかったろう。
 私は後遺症として十年余りステッキを手にする暮しをしたが、退院三十二年後の今日、ステッキは埃をかぶっている。桐山は、あの病院を出られなかった。

 同齢で、同じ学部の哲学科に在籍していた男だ。どこかの教室か廊下か、キャンパスか大学周辺の食堂か喫茶店かで、すれ違ったことがあったかもしれない。むろん憶えはない。もっとも桐山は、自治会を牛耳る革マル派とは敵対するセクトに属していたはずだから、ほとんど登校していなかったのかもしれない。それでも革マル派と反革マル派共闘とが五分と五分で対峙した、あの 181番大教室における歴史的な学生大会の日は、会場のどこかにいたはずである。
 そのくせ略歴によれば、さっさと四年間で卒業していったようだ。さような才覚も学力も、私にはなかった。

 お若い読者には、ぜひとも桐山の仕事を一度読んで欲しい。解ってくれとは、ましてや共感してくれなどとは、今さら申すつもりはない。できれば小説のみならず『「パルチザン伝説」事件』をも読んで欲しい。興味本位のマッチポンプがごとき大週刊誌の手前勝手な話題作りというものが、若き作家をいかに餌食とし、もみくちゃにしたかを知って欲しい。
 政治問題は別として、文学的達成の観点からいかがかと、意見を求められることがあった。口をつぐんできた。彼の文学を語るのは、私の任ではない。桐山 襲を古書肆に出す。

 デビュー当初の中上健次は、文章の巧い新人とは申しかねた。フォークナーやらノーマン・メイラーやら、大江健三郎やらナンヤラをこき混ぜたようなゴツゴツした文章で、読むのに閉口させられた。
 私より三歳年長の作家で、大学の文学部で躾けを受けたタイプではなく、老舗同人雑誌『文藝首都』が彼の修業場所だったようだ。同誌の同人だった数人が、同誌廃刊後にたまたま私と一緒の同人雑誌に所属することがあって、早くから彼の噂は耳にしていた。直接に(酒場で)対面するようになるのは、後年のことだが。彼にとって懐かしい名前を私が次つぎに出すので、思わず眼を細めていたものだ。

 中上の文章だけが稚拙だったわけではない。戦後の国語改革後に教育を受けた世代は、漢詩漢文脈や擬古文の語彙にも素養にも乏しく、戦前教育を受けた世代とは国語感覚において微妙に異なる点がある。文章術に厳密で口うるさい先輩作家たちからは、だから戦後生れの文章は駄目なんだと、ボロクソに云われた。早く世に出た中上健次は、その風当りを一身に受けざるをえなかったのだった。
 同世代者がまだ道場で稽古に励んでいるなかで、中上一人が往来へ出て果し合いに挑んだり辻斬りに及んだりしていた。私は中上作品の好い読者ではない。が、同世代を代表して、上の世代からの悪口雑言を一身に浴びながら、たじろがずに突っぱり切った功績には、心底敬服している。

 多くの年譜には、複雑な家庭環境だの逆境に満ちた生立ちだのと、立志伝中の逸話のごとき記述が並んでいる。しかしである。
 私は中上の郷里である和歌山県新宮市に、二人の情報源を持っていた。ひとりは地元名士のドクターで、もうひとりは速玉大社前にあって遠来の参詣者を泊める旅館のご主人だった。お二人ともに私は、聞書きゴーストライター兼担当編集者として、お仕えした。旅館のご主人は中上健次をご存じなかった。しかしドクターは憶えておられた。
 「よくできる子だと聴いてましたよ。図書館に入り浸って、いつも本を読んでいる中学生だったようです」

 酒場で酩酊状態となった中上健次は、しばしば周囲に凄んで見せた。
 「おまえらには解るまい。新宮ってとこはな、日本一、血が濃い土地なんだ」
 本当だろうか。
 中上健次の努力の多寡についての敬意は、私において揺るがない。ただし彼の文学について語るのは、私の任ではない。中上健次を古書肆に出す。