さぁて、夏本番。今日もとんでもなく暑い日になりそうだ。負けちゃあいられない。気を引締めて……というひとつの気分。
クッソ暑いのに、面倒くっせえなあ、もう……というもうひとつの気分。
同時存在する矛盾状態。
まず「負けちゃあいられない」のほうだが、めっきり出番の減ったわがお喋り興行が、いよいよ今週末だ。将来作家・文筆業を志す若者たちに、今さら他人には訊きづらい文章術初歩について、あれこれ網羅的に喋るようにとのご註文だ。芸術大学をうしろ盾とする文学雑誌の編集部による主催で、現役学生を中心に、将来入学希望の高校生も若干おいでだという。
加えて、呼吸して動くナマ多岐を眼にする機会もこれが最後かもしれないと、懸念された古い OB 連中からも、駆けつけてくださるかたがあるという。パリ五輪だ大相撲名古屋場所だと話題の多い時期だというのに、ありがたくも奇特なかたがたがいらっしゃるものだ。感謝感謝。
将来ある若者の前で、未来の文学を予想して見せるなんてことが、世間への窓を半分閉した老人にできようはずもない。売れっ子になる秘訣を伝授するなんぞは、なおのこと無理だ。自分がさような身分になったことがない。
同じ途に長年身を置いているうちには、世に羽ばたくチャンスの二度三度は巡り来るもので、私にもそれらしき出逢いやお誘いがなかったとは申さぬが、どんなハナシにもウラはある。青臭い依怙地を貫いて、尻込みばかりしてきたのである。
さような男に、若者への有益なご忠告など、本来できようはずもないのだ。
ところが「亀の甲より齢の劫」という噺もあるにはあって、ウニやヒトデのように海底で長年息を潜めていると、頭上を通過してゆくサンマやイワシの生態やクラゲの毒性までもが、ありありと見えてくるということもある。
私自身の来歴など参考にはならない。が、見聞してきた先人や著名人にまつわる逸話の数かずには、将来ある若者にとっての栄養がふんだんに含まれてある。引退した現場記者による回想であり、いわば語り部の仕事だ。
ところで「文章入門」的なお喋りのご用命をいただくのは初めてではない。冒頭かようにお断りし、あらかじめご承知おきいただくように努めてきた。
私に解るのは、しょせんは文芸創作および文芸批評の日本語に過ぎませぬ。実業界に身を置くかたのビジネス慣習や契約文書の日本語とは異なります。法曹界に身を置くかたの制度や法律用語とも異なります。それぞれ日本語には違いありませんが、いくらか別様の原理に支えられてあります。私が申しあげられるのは、限定的な日本語世界です、と。
拙宅の老桜樹が、運輸会社の超大型トラックに衝突されて、強引に突っ切ろうとなさったトラックの力で、根元近くからバキリッと折られてしまった事故が起きたのは、本年四月五日だった。斜めに倒れかかった老樹が引込み送電線を危うくしているとか、ブロック塀を歪ませて通行人に危険だとかで、警察と東京電力のあれこれの部署から驚くほど多くのかたがお出ましだった。
私の意見なんぞ訊かれることもなく、東電さんお手配の工務店さんによるお骨折りで、クレーン車が到着し、冷蔵庫ほどの発電機二台が猛烈な音をたて、三台のチェーンソーが活躍して、その日のうちに老桜樹は片づいてしまった。塀には、警察による接近禁止のピケテープが張り巡らされ、私も身をかがめてテープをくぐらねば自宅へ出入りできぬありさまとなった。その塀も、翌日から始まった撤去工事で、跡形もなくなってしまった。
運輸会社からはいまだになんのご挨拶もない。保険会社から二度ばかり電話があった。初めは運輸会社に六割の、私に四割の責任があるとおっしゃった。現場処理の経費見積りが明らかになってから二度目の電話があり、運輸会社に四割、私に六割の責任があるとおっしゃった。むろん、私は突っぱねた。それきり二か月以上もナシのつぶてだった。
6月17日に当方から電話してみた。保険会社ご担当がおっしゃるには、弁護士へ引継いだという。そんな連絡は、どこからもいただいていない。弁護士より追って連絡するとの、にべもない返答だった。そのまま何の連絡もなかった。7月8日になって、当方から電話した。こんな調子だと、先方の運輸会社へ、松明でも持って参上するほかなくなるがと、云ってみた。
同日付けの弁護士からの書状が届いた。A4 判のペラ一枚。担当することになったから、以後他へは連絡するなとの趣旨だ。梅雨空の不愉快もあって、どう返事したものかと迷っているうちに、7月18日付けに同弁護士からの第二書状が届いた。
運輸会社に三割、私に七割の責任があるとおっしゃる。運輸会社の被害額についての内訳説明はいっさいない。私の被害額をどうお調べになられたものかの、ご説明もいっさいない。ともかくナンやらカンやらの計算式で、ン十ン万ナニガシ円を、下記口座に振込めと、銀行口座まで記載されてある。
腹を抱えんばかりに笑った。当方は代理人も顧問弁護士も立てぬと、冒頭保険会社に申してある。素人にも解る説明を希望した。三か月以上も経過して、弁護士から届いた書状は、業界内用語の詰合せだった。
一面識もない人の口座に、年金一年分もの大金を振込みでもしようものなら、目白警察の生活安全課からお叱りを受けてしまう。だから老人相手の振込め詐欺には用心しろと、あれほど注意喚起したではないかと。
ところで今度は責任割合について、先方三割に私が七割が 「相当であると思料いたします」だそうだ。「思料」とは、あれこれ慮り、勘案するとの原意だが、たんに考える、思いつくの用例もある。法律用語としては、目算する、算定するの意味すらあるのかもしれない。おそらくは弁護士先生、業界慣習に則って、ごく無意識にお使いになっておられるのだろう。
保険会社では、当初 60:40 とおっしゃった。倒木片づけと塀の取壊しがあんがい大がかりな工事と知れてからは、40:60 と訂正なさった。新たな簡易フェンスの設置費用まで見積りが整い、担当が弁護士に移行したら「30:70 が相当と思料いたします」ですとさ。専門家による事故の評価は、見積書と連動しているのかしらん。
第一書状にても第二書状にても、「貴殿宅の桜の木と○○車両との間で発生しました事故」と表記しておられる。これにも大笑いした。拙宅の桜樹が、トラック目がけて突進しましたか? 警察署の関連団体から正式に発行された「交通事故証明書」には、「車両単独」の「衝突」という欄に〇が付いていますよ。動く桜とトラック「との間で」出会いがしらに発生した事故なんぞではありませぬ。トラックが一方的に衝突して来られたのです。老樹も私も、一歩たりとも動いてはおりません。
古い映画の台詞ではないけれど「事件は現場で起きてるんだ!」現場を取材見聞に訪れるでもなく、法律用語を詰合せれば、無知な老人なんぞ赤子の腕をひねるようなもんだと、まさか思っておいでとまでは思わぬが。
法律事務所の HP.における所属弁護士紹介欄によると、在職四年半ほどのお若い先生のようだ。さぞや優秀な俊英弁護士でいらっしゃるのだろう。だが、あなたの日本語と日本語一般とでは、必ずしも同一の原理に支えられてある日本語ではない。
当方無知な素人につき、私にも解る日本語で内訳説明をいただかねばならない。そうすることで、事態はより明瞭となるに違いない。いつの場合も、無理が道理を引っこめるとは限りませんぜ。
それをこれから、丁寧にお願いするんだが、クッソ暑いのに、面倒くっせえなあ、もう。