一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

新米届く


 米処の従兄が、新米をお贈りくださった。毎年この時期の、至福のご好意だ。

 「お魚の尻尾とヒレのまわり、食べらんな~い」
 「よしよし、小骨が喉に突き刺さってもいけないから、残しておきなさい。それよりお茶碗のご飯粒を、きれいに食べてしまいなさい。ほら底のほうと縁のあたりに、いく粒かあるだろう」
 「余ったのが、こびり付いちゃっただけだよ。これくらい、仕方ないよ」
 「駄目だ! ひと粒残らず食べてしまいなさい」
 「なんでお魚はよくて、お米は駄目なの。ねえ、なんで?」
 「日本人だからだっ!」

 子育てというものをついに経験せぬまま老いてしまった私による、あてにならぬ妄想場面である。世のお父上がたには、なんにでも疑問を突きつけてやまぬ知恵盛りを迎えた、大切なお子さんに、ぜひそうおっしゃっていただきたいと切望する。
 「なんでお米だけ特別なのさ。ワカンナ~イ」
 「あなた、なにもそこまで云わなくたって」
 今は解らなくてもいいっ。二十年待ってろ。それで解らなかったら四十年待て。家庭教育の理不尽さというもんは、さような側面をもつものかと思う。

 栄養士養成専門学校の校長先生にして、教育問題のテレビ論客でもある服部幸應さんが、ご講演でこんなふうにおっしゃってた。
 「よろしいですか皆さん、社会常識というものの七割以上は、食卓で耳にし、身に着くのですよ」
 世に云う「食育」の提唱である。いかなる調査・統計を根拠とするいかなるご研究によるお説かは聴き漏らした。服部さんがそれ以外の場面でいかなるご主張をなさってこられたかたかについても、まったく存じあげない。が、当てずっぽうの体感・ヤマ勘で、七割という数値はおおむねもっともなのではないだろうかと、そのとき思った記憶がある。

 昭和二十九年にこの町に引越してきた。ほどなく近所に開園された並木幼稚園の、私は第一回卒園生である。園長先生のご指導だったのだろう。昼食時間になると、椅子の背あてを内側にして連ねた大きなサークルを教室中央に描き、周囲を囲んだ園児たちは床に座って、各自の椅子を食卓として、母が持たせてくれた弁当箱を開いた。
 蓋を開ける前に、礼儀の決りごとがあって、全員で掌を合せて声を揃えた。
 「お父さんありがとう、お母さんありがとう、お百姓さんありがとう、いただきま~す」
 生意気盛り前期に差しかかっていた私は、お父さんお母さんは好いとしても、お百姓さんありがとうは、このさい必要かしらんという想いが兆したことも、稀にはあった。が、多くの手を経て今ここに弁当があるとの道理は、おおむね理解できた。

 北隣の児童公園になにやら時ならぬ人声がする。児童の甲高い声ではなく、大人たちの声だ。ツルハシかスコップかを地面に突き刺すような音もする。昨日のことだ。
 窓を開けてみると、五人ほどが作業をしている。しきりとカメラを構える女性と、脇に立ってあれこれ口出しする年配男性を加えて、七人編成の作業班だ。砂場の脇の三角形の空地に穴を掘っている。木枠を組んだ半完成品といった感じで畳ほどの大きさの造作物が、近くに用意されてある。消防か祭の用具収納にしては、規模が小さ過ぎる。これっぱかりの作業に、なんと大袈裟な人数であることよと、窓を閉めた。

 今払暁、ハガキを投函しにポストまで出たついでに、公園を覗いてみた。コンポストが設置されてあった。枯草枯枝を溜めて発効促進させ、肥料化する設備である。四本柱に合板を打ち付け回して、樹脂波板で上を塞いだだけの、単純な造作だ。波板の上には「この上に乗らないでください、ものを置かないでください」と貼紙がしてある。どてっぱらには、これがコンポストであると明示されてある。
 空間効率の悪い三角袋小路を有効利用しようと、どなたかが思い着き、お仲間を募って豊島区に願い出て、着手にまで漕ぎつけてくださったのだろう。あるいは区役所の担当課から依頼を請けてということでもあったのだろうか。委細は知らない。

 いずれにせよ、滑り台と砂場との間の、使い道のなさそうな空間に、一見不細工なこんな設備があることは、けっこうじゃないかと、私は思う。
 けれども、美観だ衛生だ匂いだ環境だと、本気でもない奴がかならず云い出すから、視ててごらん。