一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

町の顔


 一昨日、中秋の名月を観あげた空だ。

 玄関先で伸びあがって、塀越しに東の空を眺めあげた。池袋の方角だ。今夜が中秋であれば、観月はできなかった。
 ファインダーを通してみると、知らない町だ。あのお宅には、あのマンションのなん階にはどなたがお住いだと、存じあげる建物は数えるほどしかない。悪ガキ時分には、垣根の破れ目や、ひと様のお庭先を無断で通過する抜道まで掌握していた。お付合いあるなしにかかわらず、どの家にはどんな人がお住いか、おおよそ把握していたものだ。いつの間にか、見知らぬかたがたの町となった。

 中学から電車通学した。悪ガキ仲間とは疎遠になっていった。大学生になると、家はますます夜食を食うために帰る場所となった。帰らぬ日もあった。祭礼の神輿を沿道から眺めると、かつての仲間たちが担いでいた。束の間、仲間に入れてもらった日もあった。こういう生きかたもあったかなと、一瞬だけ思った。
 会社員となって、家は寝に帰るだけの場所となった。早朝帰宅も多かった。世田谷区経堂でアパート暮しもした。主戦場は新宿だった。

 四十歳ころから、原稿書きの下請け仕事の注文が舞込むようになった。それまでに二十年ほど、売るあてのない原稿を書いてきていたから、驚きも新鮮な想いも、べつになかった。經堂を切上げて、この町へ帰ってきていた。祭礼の神輿を沿道から眺めると、かつての仲間が棒先の制御をしたり、拍子木を打ったりしていた。
 「オーイ、担がねえのかい」
 「冗談じゃねえや、壊れちまわぁ。今は息子が担いでらあ。ホレ、あいつよ」

 五十歳近くなって、大学から喋りの注文が舞込んだ。副業がひとつ増えた。そして看病と在宅介護の時代が始まる。五十五歳で会社員を辞めた。原稿書きも辞めた。泊りがけの出張もできないし、突発的な注文にも応じられなくなったからだ。予定時間どおりに動けば好い、喋りの副業だけを残した。ケアマネージャーさんと綿密に打合せて、出講曜日には施設のデイサービスとヘルパーさん派遣とを組合わせた。台所と両親の寝室とが主戦場になった。
 商店街やスーパーと親しい間柄となった。とっくに知らない町となっていた。昼間に洗濯時間など確保できず、深夜にコインランドリーへと通うようになった。明るい時間にランドリーへ行った稀な機会には、近所の奥さんがたから耳寄りな情報をいただいた。じつに役立つ、即効性の情報が多かった。

 六十歳を過ぎて、看病も在宅介護も了った。七十一歳で喋くり業も定年となった。で、ブログを書き始めた。

 草むしりの跡に、ミリ単位の花を咲かせる連中がある。よくよく注意していなければ、気づけない。例の三強シダ・ドクダミヤブガラシが再生してこようものなら、たちまちにして埋もれ、頭上を覆われてしまうことだろう。彼らには、この時しかないのだろう。
 三強が跋扈して、陽射しを奪われ、地中の水分養分を分盗られても、その下でどっこいしぶとく彼らは生きているのだろうか。それともいったんは枯れて地上部は消失し、種子か地中の根っこかの状態で、次のチャンスを待つつもりだろうか。

 祭礼の神輿を沿道から眺めても、担ぎ手にも沿道の観衆にも、知った顔はめったにない。詰所まで出向くと、六尺も締めず股引もはかず、半纏も着用せずに、浴衣がけで団扇なんぞを手に、しわくちゃ顔で大笑いしている奴がある。
 「ケーッ、見っともねえジジイになりやがって」