一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

不幸なこと

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チケット半券、プログラム、チラシ

 一昨日、渋谷ジローでの『オイディプス王』公演を回想したさいに、探し出せなかったものがあった。拙宅の半ゴミ屋敷状態ゆえの不祥事だ。ようやく探し当てた。
 チケット半券の上部にミシンが入っていて、ドリンク引換券となっているが、切ってない。記憶は間違っていなかった。やはり飲みそびれたのだった。

 演劇集団変身による代々木小劇場公演と、劇団俳優小劇場による渋谷ジロー公演とを並べたのには意図がある。いずれも一九六六年から六七年にかけてだということ。
 寺山修司さんらの劇団天井桟敷の旗揚げ公演『青森県のせむし男』は、『オイディプス王』の翌月である。
 劇団自由劇場や劇団発見の会の面々が団結した佐藤信さんらの活動団体は、その名のとおり「演劇センター68」であり、「68/71黒色テント」である。
 早稲田の学生劇団出身者たちによる試演をへて、鈴木忠志さんらが劇団早稲田小劇場を結成したのは一九六六年だそうだが、喫茶店の二階劇場で頭角を現した「劇的なるものをめぐって」は六九年ころのことだ。いずれも、まだ影も形もなかった。
 唯一、唐十郎さんらの劇団状況劇場だけは、もっと早くから活動開始していたが、まだいかにもマイナーな存在で、演劇シーンに登場したとまでは云えなかった。

 後年、第一次小劇場運動の大立者となる方がたは、志を抱いてはいても、まだ暗中模索状態で、独自のスタイルを確立するには至っていなかった。それに先駆けて、新劇の内部から、意欲的な演出家や若手俳優たちによる、造反的実験として、わずかではあったが小劇場公演は試みられていた。これは視逃せない事実と思う。

 のちには、新劇vs.それを全否定する小劇場演劇というふうに整理され、レッテル貼りされてしまった。そこには確かに、対立軸があった。芝居に欠くべからざるは台本か肉体か。云い換えれば練り上げられた完成度か、それとも観客と共有する同時性か。が、すべてがすべて、背反的要素ばかりではなかったはずである。

 演劇史の先生がたは、今日どうまとめていらっしゃるのかは、まったく知らない。が、当時右も左も判らぬままに、ヤマ勘でうろついていた若いもんの一人として想うことは、新劇対小劇場を対立構造のごとくに眺めてしまったことは、芝居にとっても、なにより観客にとって、不幸なことだったのではないか、ということだ。