一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

聖夜

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 原作と児童向け絵本とが、かくも隔たった作品となると、これと『ガリヴァー旅行記』とが双璧をなす。
 
 ○兄さん、うちにはどうして、クリスマスのお爺さん、来ないの?
 ●かあさんが、街へ行ってお爺さんに頼む、暇がなかったんだってサ。それより窓をご覧よ。お向うのお金持ち。
 ○なんて明るいんでしょう。わァ、あんなにオモチャが。それにケーキも一杯。食べきれるのかしらん。
 ●残すのさ。あの人たちは、食べ飽きてるからね。
 ○まァもったいない。おいしそうだこと。おすそ分けをいたゞけないものかしらん。
 ●まさか。あの人たちは、ぼくたちのことなんか、知らないんだ。

 モーリス・メーテルリンク(1862‐1949)『青い鳥』は、極端な貧富格差のなかで、人はいかにして夢を維持して生きてゆくかを謳いあげた芝居。日本ではプロレタリア文学系の文学者たちから注目され、戦前の築地小劇場の人気演目でもあった。演劇改良運動、近代劇啓蒙活動のなかで、メーテルリンクイプセンチェーホフとならんで、新劇のお手本作家の一人と位置付けられていた。

 クリスマスの夜。母親が灯りを消し忘れたために、子どもたちは遅くまで起きていた。ふいに魔法使いの婆さんが訪ねてくる。あれっ、お隣のお婆ちゃんって、じつは魔法使いだったんだ。
 「青い鳥を捕まえて、このカゴに入れておいで。きっと願いが叶うよ。さ、これらを連れて」
 妖婆の合図で、「光」「時」「夜」「火」「水」「パン」「砂糖」「犬」「猫」がいっせいに姿を現す。いやそれまで身近にあったものが動きだし、喋れずにいたものが口を利き始めたのだ。桃太郎噺の犬・猿・雉より遥かに複雑で、キャラクター性に富んでいる。「光」や「猫」には、主人公の兄妹よりもファンが多いかもしれない。

 思い出の国では、亡くなったお祖父さん・お祖母さんに逢えた。幼くして他界した弟妹たちも、そこらでちょろちょろしている。青い鳥がいたので、分けてもらう。どうすれば、また逢えるの?
 「造作もないことさ。お前たちが、思い出してくれさえすれば、いつでも逢えるよ」
 その国を出たら、青い鳥は色あせていた。

 夜の館では、病気や犯罪や、あらゆる忌わしいものが三つの巨きな牢屋に振分けられて、閉じこめられていた。
 迷い込んだ深い森では、樹々たちが喋り出し、人間が植物たちに対していかに非道なことをしてきたかを、口ぐちに云いつのってきた。
 幸福の国では、食うに困らぬ幸福だの、働く必要なき幸福だの、様ざまな幸福と逢った。が、よく視ると、みんな動き辛そうな太っちょで、本当は幸せそうでもなかった。
 未来の国では、理想的な技術発展をとげた暮しを見せてもらった。やはり幸せとは思えなかった。
 行く先ざきで、青い鳥を視かけた。捕まえられなかったり、捕まえても死んでしまったりした。

 気がつくと、我が家の前だ。中には母さんがいる、と思ったら眼が醒めた。お隣のお婆ちゃんが、カゴに入った青い鳥を持って来てくれた。なぁんだ、魔法使いじゃなかったんじゃないか。

 この噺の美しさと怖ろしさは、世間をひと廻りしてきてから身に染みる。児童向けには、筋の上澄みをすくって絵本にでもするしかあるまい。
 今では江國香織さんによる新訳(正しくはノベライズ)という行届いた本もあるが、惜しむらくは行届き過ぎている。
 原作に近い訳もいくつかあるが、なかで堀口大學訳が普及本となっている。