一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

米の顔

 中国相手の商売を思い悩んで、アメリカの顔色を窺ってるわけではございません。文字どおり、お米の顔色のことでございます。

 このところ外食の機会が続いたり、炊事を手抜きしようと素麺を茹でたりパンを買って食べたり、酒肴にて胡麻化してしまったりで、米の消費速度が衰えてきていた。かくてはならじ。健康の土台は自炊飯にあり。日に一度のチャント飯への復帰はぜひとも必要だ。
 おりしも小分け冷凍飯が底を突いた。すなわち飯炊きだ。眼をつぶってでも進行できるような、いつもの手順である。

 米櫃から300メジャーカップにすり切り二杯を、炊飯器の内釜に取る。三合とちょっとといったところか。いただきもの「舞茸ご飯の素」ひとパック二合炊き用は、今回は温存する。内釜で米研ぎしてしまう。邪道。これから主婦となられる良家のお嬢さんは、けっして真似なさらぬよう。
 水加減したら、猪口に一杯(つまり玉しゃもじに八分目ほど)酒を差す。乾燥切り昆布をヤマ勘量加える。縮みあがって少なく見えても、水に戻ると化け物的にひょろ長くなるから、小鉢のなかでざっと鋏を入れておくのが安心だ。じつを申せば、なくても済む手間である。炊きあがって炊飯器の蓋を開けたとき、柔らかくなった切り昆布が集合して飯のうえに貼り付いているから、寿司職人がシャリ切りする姿を真似して、木のしゃもじで線を引くようにしながら飯を返せば、昆布は千切れて十分に混ざる。だが下手くそだから、均等に混ざらぬ場合もある。念のために、あらかじめ鋏を入れておくわけだ。
 小一時間休ませる。あれっ、水加減を勘違いしたかなと一瞬思うほど、米表面と水面との距離が縮む。米が水を吸う勢いというものは、凄まじいものだ。切り昆布もすっかりリラックスしている。通電。

 今回は十一個の小分け飯が取れ、二分の一個ぶん余った。すべてがテキトーだから、毎度誤差が出る。たいてい十一から十三個の間だ。が、今回この数に注意していたについては、少しばかり理由がある。

 この春、東京都から突然予告なしのダイレクトメールが舞込んだ。コロナ禍・円安・諸物価高騰、底辺庶民の生活はさぞや困窮に瀕しておるに違いない。そこで東京都では、貧困家庭を対象に、ありがたい食糧援助を企画した。しかもいかなる形態での援助がありがたいか、希望を叶えてつかわすから、返信用紙にて遠慮なく希望を述べよ。ただし、寄せられた結果いかんによっては、希望どおりでない場合も生じるから、あらかじめ承知しておくように、との趣旨だった。

 地方税の納税記録その他の検索によって、私は底辺貧困家庭に分類されてあるらしい。たしかに貧困たることは否定しないが、父ちゃんが配送中のトラック交通事故で療養リハビリ中、母ちゃんがスーパーレジ打ちとパン工場の包装係でダブル・パート。中学生の姉ちゃんが小学生の弟二人の食事を用意している、といったご家庭と、同様のほどこしを受けてよろしいもんかどうか。いささか釈然としなかった。
 援助希望用紙の選択肢を眺めても、事態は歴然としている。
① 米25キロ(15+10 の二回送付)
② 米25キロ(10+10+5 の三回送付)
③ 米15キロ+半調理野菜(15+カット野菜水煮パック 1 ケースの二回送付)
④ 米15キロ+緑茶飲料(15+ペットボトル緑茶 1 ケースの二回送付)
⑤ 米15キロ+果汁飲料(15+ペットボトルジュース 1 ケースの二回送付)
 どう考えても、パート母ちゃんとけな気な中学生主婦向けであって、独居自炊老人が念頭に置かれたメニューではない。印刷物をしげしげ眺めてみたら、隅っこに豆粒のごとき文字で、協賛だったか協力だったか「全農」と書かれてあった。ナルホドね。

 が、ほどこしを受ける身で贅沢申してもバチが当る。とにかく返信を投函しておいたところ、ある日突然に、宅配便が届いた。受け状に捺印して荷物を受取ろうと腕を伸ばしたら、
 「大丈夫ですか、重いですよ」
 顔馴染の配送員さんがニヤニヤしながら、いたわるように気遣ってくださった。なるほどズシリと重かった。かくして、親戚一同は米処ばかりの老人の台所に、米 5 キロ袋が三袋も積上げられたのである。
 予想どおりだった。産地表示も品種銘柄表示もなし、精米所も精米日もなし。なにひとつ表示のない、透明なビニール袋入りの 5 キロ袋が三個だ。

 今日から、そのほどこし米に手を着けるのである。水加減だの、米が水を吸う程度だの、炊きあがりの色艶だの、小分け握りにするさいの粘りだの弾力だの、そして最後に味だの食感だのが、気にかからぬはずがないではないか。
 大急ぎで附言するが、口うるさいことを申す気は毛頭ない。だいたい日本に不味い米など、めったにない。ただ寿司に向く米、粥飯に向く米、炒飯に向く米などなどが、多少はあるという程度のものだ。どれも美味しくいただける。
 米でも寿司でも酒でも蕎麦でも、肉でも魚でも、品評鑑定官でもないくせに、とやかく云う輩に、まことの食通があったためしがない。いや、胸の裡で弁別鑑定するのはご勝手だが、人前で能書き垂れる輩は、たいてい話題が好きなのであって食い物が好きなわけではなさそうだ。

 とくに今回は相手が米だ。ひと粒たりとも逃さずに、小分け冷凍へ回さねばと、しゃもじで内釜の底まで丹念にさらった。ものの食いかたについては、人それぞれの習慣も好みもある。が、米に関してだけは「ひと粒も逃さず」が原則である。
 知恵つき盛りのお子があるご家庭では、
 「ねぇお父さん、なんでお米だけは残しちゃいけないの、ねぇなんで?」
 しつこく訊ねられることもあろう。持て余した夫人からバトンタッチされてきた質問にちがいない。
 「日本人だからだっ。今に解るっ」
 世のお父上がたには、さよう大声でお応えいただきたいものだ。

 したがって、米に文句はないのだけれども、この米、最後のひと粒までこそげ取ろうとすると、釜としゃもじとの間ですぐにつぶれて、糊になっちまう。
 スープに溶いて、病み上りの重湯にするわけじゃないんでなあ……。