一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

散髪への道


 昨夜半から降り出した。ほんの小雨で、すぐにやみそうだった。払暁トイレに起きてみたら、本降りになっていた。午前九時に起床。小降りとなってはいたものの、まだ降っていた。視るからに寒そうだった。

 バザーのポスターを貼らせてもらえませんかと、先日依頼を受けた。開催日と会場については、私も拙宅の塀で知った。
 バザー……。懐かしい言葉だ。生れて初めて耳にしたのは、昭和三十年ころだ。近所の聖パトリック教会で開かれ、日曜学校の生徒たちは全員楽しみにしているという。私は日曜学校には通っていなかった。どんなことをするのだろう。興味は湧いたが、気後れしたものか、出掛けてみた記憶はない。

 行ってみるかという気になった。骨董市・ボロ市を歩き回る三~四十代を経ているから今では、どんな模様かはおおむね想像がつく。たまにはこういうことも……。
 ポスターには、雨天中止とも決行とも、順延とも明記されてない。それに、あまりにも寒い。尻込みしてしまった。
 正午近くに雨は上った。バザーには遅い。せっかく午前中に起床したのだから、懸案をなにかひとつでも片づけよう。散髪に思い当った。月に一度と心掛けてはいても、人前へ出たり面談したりする用件のほとんどない身だから、ついつい間遠になりがちだ。それに先延ばししたところで、刈る髪がたいしてあるわけでもない。バリカンでくるっと丸刈りにしてもらって、襟足と生え際とを整えてもらうだけだ。月一予定がふた月近く経ったところで、傍目に見苦しくなるだけのことで、自覚できる実害はない。


 いつものように、フラワー公演前の道を行く。夏花壇が了ってしばらく寂しくなっていたが、すっかり新しい草花に植替えられてあった。
 花壇についての知識はない。一年草が主なのだろうから、ツボミ・開花・満開のほんのひとときだけを人に見せる。それでよろしいのだろう。種子の時代や、新芽や茎や葉だけだった時代を、あえて見せるには及ばないのだろう。その時代のほうが、はるかに長いのに。

 時代を牽引する先頭ランナーとして、十年間仕事をした作家は少ない。ほんの数えるほどの例外的文豪だけだ。夏目漱石は一作々々脱皮するようにして、つまり先頭ランナーの一人としてじりじりと十一年間走り続けてバタリと倒れた。森鴎外は二十六年間均等な走りではなく、狙いも材料も変化させながら、いわばいく度も復活するかのように書いた。
 島崎藤村徳田秋声正宗白鳥ら文壇生活半世紀とはいうが、つねに先頭ランナーだったわけじゃない。ある時期先頭で、その後は有名ランナーとして敬老精神に支えられてあったというまでだ。永井荷風谷崎潤一郎室生犀星宇野浩二も、若き日にいったん先頭ランナーの役目を果し、後年にもう一度傑作を書いて注目されたというのが実情だ。
 横光利一の時代、中野重治の時代、伊藤整の時代、高見順の時代、どれひとつとして魅力的でない時代などないが、十年間続いたものはない。


 いつものように、多肉植物を愛玩なさるお宅の前を通る。花は咲かない。成長はのろい。姿は一見地味だ。しかし一年前の今ごろを思い出してみると、ずいぶん変化してきている。大きくなったものもある。姿を消したものもある。

 散髪はあっという間に了り、マスターのご母堂がお茶を淹れてくださる。月餅つきだ。
 「うわぁ、温かいお茶を、今季初めていただきます」
 「うちでも、昨日から淹れ始めたところですよ」
 帰り道にもう一度、多肉植物をしげしげと観なおした。
 あの爺さんは、花も実もないあんなもんを、いつまで眺めていやがるんだろうと、鴉から視おろされていた。レンズを向けると、メンドクセエ奴だと迷惑そうに一声啼いて、信号向うの屋根へと移動していった。