一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

花の塔



 雑司ヶ谷鬼子母神さまのお会式(おえしき)である。曜日にも空模様にも関係なく、十月十六日からの三日間と決っている。最終十八日の夜には最高潮の盛上りを見せる。
 しかし疫病には妨げられた。心置きなく祭礼が催されるのは、四年ぶりだという。

 昼間の境内は、立並ぶ露店群を縫うようにして若者たちや家族連れが、買食いや買物や射的やダーツを愉しみ巡る、縁日の風情だ。本殿近くには、警察・消防・実行委員会による相談所のテントも張られてある。
 午後八時を過ぎるころから、境内にスピーカー音声が間をおいていく度も鳴り響く。
 「ただ今、先頭が都電通りを通過しました。間もなく到着いたします。境内は一方通行となります。お気をつけください」

 巨大な行列集団がやって来る。本殿詣りだ。高張提灯が林立する先頭は、揃いの印半纏を着込んだいかめしい集団だ。以下教団支部だの、町村の信仰集団だの、大きな連の行列が続く。しめやかな宵祭などではない。だんだん好くなる法華の太鼓。信者連が息を揃えて打ち鳴らす団扇太鼓と鉦(かね)、それに拍子を整えるホイッスルとが、鼓膜に襲いかかってくる。各連ごとの、手作りの花の塔が踊る。本殿前にうち揃い、ひときわ強く太鼓を打ち、南無妙法蓮華経を高らかに唱え、脇参道から去ってゆく。

 つい眼と鼻には日蓮宗の寺院もある。本地垂迹の時代には、界隈一帯がさような信仰場だったのだろう。
 鬼子母神さまがいかなる神か、ここがいかなる信仰場かも知らぬまま、縁日の賑わいを愉しみにやって来た若者たちは、眼を白黒させている。なにはともあれと、身を伸びあがらせ腕をさしあげて、スマホ撮影する。
 小一時間も続くうちに、有力連の参詣も過ぎ、規模の小さい集団がえんえんと続くようになる。なん十基もの花の塔が、遠くから近づいてくる。ご町内や商店街の信仰者集団だったりする。真言宗を家の宗旨とする私が、お会式に足を運ぶ理由となっている光景は、じつはここから始まる。

  
 お会式は女性たちの、なかんづくお母さんたちの祭だ。性差別のなんのと叱られるのは怖いから、「子育て家族の祭」と云い換えておこう。

 昔むかしの大むかし、このあたりに子育てする女鬼が棲んでいた。人の赤ん坊をさらっては食っていた。赤ん坊の肉は柔らかく、わが子育てには真向きだったのだ。
 あるときちょいと眼を離したすきに、わが子が行方知れずになった。呼べど叫べど見つからない。血まなこの形相で三日三晩、泣きわめきながら捜し歩いた。さいわいわが子は無事だった。
 女鬼は考えた。たった数日わが子が行方不明だっただけでも、命ここにあらずの想いだった。ひき換え自分はこれまで、人の親にたいしてなんという仕打ちをしてきたことだろうか。
 それからは人の子が危険な場所に近づくと、ここから先は鬼が出るぞと諭した。してはならぬことを仕出かそうとする子には、鬼が笑うぞと忠告して歩いた。子供たちを守り、健やかに育つよう見守る日々を過したのである。齢をとって、見守り歩こうにも躰の自由が利かなくなり、情なく腑甲斐ない想いがきざしたある日、生れてこのかた額から生えていたツノが、ポロリと落ちた。
 だから鬼子母神さまの「鬼」の字には、第一画めのチョンがない。ワード検索では出てこない文字である。
 子育ての神となった女鬼をお祀りする、鬼子母神さまの縁起由来だ。

 えんえんと反復される打楽器の強烈なリズムに、酔ったように狂ったように身を踊らせながら参道を進む人がある。二の腕にも肩にも、伝統的彫り物とは似ても似つかぬ怪しげなタトゥーを彫りこんだお父さんが、子供を肩車して通る。金髪のお母さんが、子供をおんぶして通る。物腰や眼配りから察するに、もとは素人ではあるまい、かつてはさぞやと窺える初老女性が、団扇太鼓を叩きながら通ってゆく。
 いずれもが枝垂れる花の塔を見事に飾ろうと、夜鍋して薄紙の造花を準備した人たちだ。生きかたも来しかたもそれぞれだ。まちまちだ。とはいえわが子が丈夫に育って欲しいとの願いに、相違なんぞあるものか。


 四年ぶりのフィナーレは幕を降ろした。また一年、生きのびた。この光景をふたたび眼にする機会はあるのだろうか。