一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

祭の途上



 静かだ。祭の宵だというのに。

 境内や駅周辺の店みせは、すっかり片づいたのだろうか。居酒屋やスナック・飲食店はどこも満杯だったことだろうが、収容しきれぬ若者たちが街に溢れて、辻つじや街路樹の周りやコンビニの前などに、三人五人と屯して、別れたくなさげに談笑し続けているのだろうか。
 徒歩五分、私の歩幅で七百歩あまり離れただけで、拙宅周辺は人通りすらまばらだ。酔余の大声で談笑しながら過ぎる若者グループが、たったひと組あったばかりだ。児童公園のベンチに屯する人の姿もない。
 祭りは明日こそ本番でありフィナーレであり、出番のある者にとっての晴舞台だ。明日に備えて、今宵は自重ということなのだろうか。

 疫病蔓延による自粛の歳月を跨いで、はしゃぎかた・解放されかたを知らぬ若者が増えてしまったのだろうか。いやいや、さようではあるまい。神社の祭礼だからって夜まで騒ぐのって、ダサくね? という若者が増えたのではあるまいか。現象面を捉えれば、地縁の弱まりということになろうが、それ以前に美意識・価値観(せんじ詰めれば信仰観)の変化ではあるまいか。私が信奉するオテントさま信仰なんぞは、急速に力を喪っているのだろう。
 小売や手職の自営業店もめっきり減った。親の商売を子が継いだ例も減っている。いずこも同じだろうが、大型小売店舗やチェーン店の花盛りだ。
 手職業の自営はと思い馳せてみると、時計修理屋さん、合鍵屋の親爺さん、工作機器の研磨屋さん、歯科医の先生と接骨整体の先生。あとどなたがいらっしゃるのだろう。いずれも後継者がおいでとはお見受けしない。ガラス屋さん、水道屋さん、畳屋さん、材木屋さん、刃物研ぎ屋さんは廃業された。洗濯屋さんは家電販売店と同じく早くから企業系列傘下に入った。
 昭和時代には、木工所と鉄工所の小規模自営工場があった。セメント瓦の製造工場もあった。線路を越えた隣町には醤油工場があって、前を通ると強烈な匂いがしたものだった。今はなにひとつない。

 数えきれぬ中層マンションやたった一棟の高層マンションに、どういうかたがお住いなのか、まったく存じあげない。もし子育てをしておられれば、お子たちの保護者同士として新たな共同体が形成されてあるのだろうか。
 大学や専門学校の学生会館も、企業の社員寮もある。この町を「わが町」とお認めくださるのだろうか。

 昼間はつねとは異なる、山車の大太鼓や神輿による地響きで、さぞや面喰い、物陰に息を詰めていただろう蜘蛛が、あまりに静かな夜更けに安堵してか、わがデスク上へも姿を現した。いつものアダンソンハエトリである。クモの巣を張らぬ種類だが、縄張り意識でもあるものか、一匹づつしか登場しない。今日に限って、三時間前とたった今と、別の個体が姿を見せた。
 体色から推すに、今顕れたのはうんと若い。さっき先輩が漁り済ませた路を、知らずに漁りなおしているのだろうか。
 静かにして、暢気な宵である。