一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

敬老会



 「日本ばし 大増」の折詰弁当「吉野」である。

 九月中旬には、町内回覧板が回ってくる。空欄の表組が印刷されてあって、七十歳以上の住民は、氏名と番地と生年月日とを記入せよとある。来る十月の日柄よろしき日に、満七十歳以上の老人を寿いでの、敬老会が催されるとのこと。いや以前は会食会が催されていた。ここ数年は疫病対策として集会は催されず、弁当だけが支給されるという。
 遠慮したいところだが、隠しだても頑なに過ぎる気がして、正直に記入して回しておいた。なん日かして郵便受けに封書が舞込んだ。切手が貼られてない、手づから投函だ。十月二十二日の日曜日、午前十時から十一時半まで、区民集会場の玄関前に弁当を用意するからご参集されたしとか。児童公園の隣で、拙宅からは徒歩一分だ。

 昨年も同様の封書を受取ったが、気にも留めずにすっかり忘れていたら、正午近くに玄関チャイムが鳴った。野尻組の頭が、笑顔で立っていた。
 「弁当。お越しじゃなかったんで」
 恐縮至極。最敬礼で捧げ受け、最上級のお礼を申しあげた。後日、お若い衆にひと口と、一本提げてお伺いしたことは申すまでもない。
 今年はさようなことがあっちゃいけない。封筒にマジックインキで太ぶとと日付を書き、壁の目立つところにクリップしておいた。町会からゴチになるようなことは、なんにもしちゃいないんだがとの忸怩たる想いを振切って、草履を履いた。

 日ごろ町役を務めてくださってるかたがたなのだろう、ズラリと居並んで、行届いたご配慮だった。買物途上の往来などでお視かけした覚えがありそうなお顔も混じるが、はっきり存じあげるかたはおられない。
 持参した封筒の表書きを眼にして、寄って来られたかたがあった。
 「お宅へ投函したのは私です。判りましたか?」
 無理な噺だろう。だが聴いてみると、拙宅の郵便受けには、本名以外にもいくつかの受け手の名が表示されてあるので、この郵便受けでよいのかといささか迷われたとの意味だったらしい。余計なご気遣いをおかけした。
 あたりかまわず、そこらに居並ぶどなたにも、ご馳走さまになりますとお礼申しあげて、弁当と缶飲料とが入ったレジ袋をいただいた。

 敬老会の仕組が誕生したころ、父は七十歳を超えていたが、母はまだ六十代だった。当然ながら父は回覧板に自分の名だけを書いた。なん年かして母も七十代となった。同上・同前とばかりに、父は母の名前を書かなかった。母の弁当は用意されなかった。
 身内への心遣いを世間へおもて立てにすることを、はしたないと感じる父だった。生来のボンヤリもあったけれども。どうせワタシのお弁当はないからと、母は苦笑していたが、たいして恨みに思っているふうでもなかった。
 ご町内の集会に顔出しする父ではなかった。証拠の封筒を持って、母が代理で弁当をいただきに行ったにちがいない。商店街の皆さんとの情報交換も、正月の松や祭の提灯など野尻組との付合いも、母が独りでやっていた。
 どういうわけだか、回覧板だけは父が記入した。それが間違いの元だったのだ。