一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ソルジェニツィン

     
  アレクサンドル・イサーエヴィチ・ソルジェニツィン(1918 - 2008)。

 高校高学年のころ、ソルジェニツィン作品が翻訳刊行され始めた。『イワン・デニソビッチの一日』が代表作とされた。大学に入学した年に最初の長篇翻訳『ガン病棟』が刊行された。「二十世紀のドストエフスキー」という出版社の謳い文句に、わけもなく心躍った。理解及ばぬままに、むさぼり読んだ。だいぶ読み進めてから、コストグロートフという男がふいに現れ、病院の入口を通過する。つまり主人公がなかなか登場しない。なるほどドストエフスキーだ、と思った。
 一九七〇年にはノーベル文学賞を受賞した。まさに時の人で、翻訳書も次つぎ刊行されていった。

 父は熱血愛国の帝政期ロシア魂を抱く兵士で、母は敬虔なキリスト教信仰に貫かれたウクライナ人だった。文豪幼少期に父は戦死し、彼は母と親戚に育てられた。母は生涯再婚しなかった。
 地方在住にして暮しは貧しく、大都市の大学で文学を学ぶ環境にはなかった。地元大学で数学を学んだ。演劇(役者)の道に夢を抱いたこともあったが、声に難あり才能伴わず、実現しなかった。
 スターリンを批判して政治犯として拘束され、収容所暮しと強制労働に服した。フルシチョフ政権となって、スターリン批判がソ連公式見解となったいわゆる「雪解け」時代となるにおよび、解放されはしたものの、地方在住が義務付けられ、大都市へと進出する道は拓けなかった。政治犯はさような処置に付されたものだったという。数学と物理の教師として中学校に勤務した。
 密かに執筆は続けられた。自身の闘病~小康の経験をもとに『ガン病棟』が執筆されたのは一九六〇年代だ。


 父の愛国魂と母の厳格キリスト教信仰とを半々に受継いだ文豪は、どうしたってソ連体制には批判的である。国外追放され西ドイツやスイスに住んだ。やがてアメリカの大学から名誉学士号を受け、家族してアメリカに移住する。妻も息子たちも、後年はアメリカ国籍を得ることとなった。
 ゴルバチョフペレストロイカからエリツィン新自由主義時代への経過にあって、名誉回復されソ連市民権が得られると、文豪は喜んで妻とロシアに戻った。しかしその後、シベリア鉄道を使って広く東方地域を視察に歩いた文豪は、新自由主義経済が地方を空洞化・疲弊化させている実状に心を痛め、エリツィンに進言した。まったく受け入れられず、エリツィンに失望したという。代って登場し地方経済の復興に着手したプーチンに対しては、おおいに期待を寄せたそうだ。

 文豪はごく若き日に、マルクス主義を放棄している。その後の近代化政策に対しても、ひずみや矛盾を鋭く感知して、懐疑的である。むしろ君主制信奉者と目されている。神の意向をないがしろにした人間による、あらゆる「主義」はすべからく傲慢であるとの立場だろう。宗教界のノーベル賞と称ばれるテンプルトン賞というものがあるそうだ。文豪はノーベル賞よりもこちらの受賞を歓んだと伝えられている。
 だが息子たちは全員、アメリカ国民となった。

 私は六十歳代に一度、七十歳を迎えてすぐに一度、計二度にわたりほぼ一か月の入院を余儀なくされる大病に見舞われた。入院生活はサバイバルである。いく本もの管に繋がれた人工栄養・人工排泄の窮地を脱したら、医師や看護師の云いつけを徹底遵守して、病院食はひと粒一滴たりとも残さず摂取する。そのことのみに集中する。
 そして退院の目処がついてきたら、娑婆に出たらなにをするかの計画に入る。『ガン病棟』を読み直してみようとの想いがしきりに起った。が、人後に落ちぬ怠け根性の持主である。喉元過ぎれば、の状態となっている。

 『煉獄のなかで』全二巻(タイムライフ・インターナショナル、1969)
 『鹿とラーゲリの女(戯曲集)』(河出書房新社、1970)
 『収容所群島』全六巻(新潮社、1974 - 77)
 『仔牛が樫の木に角突いた――ソルジェニーツィン自伝』(新潮社、1976)
 内村剛介ソルジェニーツィン・ノート』(河出書房新社、1971)
 陶山幾朗『シベリアの思想家――内村剛介ソルジェニーツィン』(風琳堂、1994)

 ロシア正教の神秘へも、シベリアのツンドラへも、もはや思い及ぶ機会は訪れまい。以上を古書肆へと出す。
 ただし以下のみ残す。前者は代表的短篇『イワン・デニソビッチの一日』『マトリョーナの家』『クレチェトフカ駅の出来事』を収録。併せて当時訳書未刊だった『ガン病棟』についての評論も収められてある。
 『新しいソビエトの文学 6 ソルジェニーツィン集』(勁草書房、1968)
 『ガン病棟』全二巻(新潮社、1969)