一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

日暮里夜景



 道端に秋の色を観ても、余命だの晩節だのということばかり連想する。行楽シーズンだの運動会だの菊花祭だのが思い浮ぶのは、その後だ。老人性の憂鬱症だろうか。自覚症状はないけれども。

 久びさで日暮里駅に降りた。きれいな駅だ。巨きな駅だ。通学駅として、また遊びにやって来る駅として乗降したのは、かような駅ではなかった。
 仙台医専への留学に向った魯迅が、後年まで記憶した途中駅名は日暮里と水戸だったと、回想文の名作『藤野先生』に記されてある。まさかそれほど旧い噺ではないが、私に馴染みの駅も今とはだいぶ違う。山手線と京浜東北線のほかに、常磐線京成電車への乗換駅だったから、小さな駅とは申せなかったが、どことなく煤けた感じの古ぼけた駅だった。

 出入り改札口も乗換え路線への連絡通路も増えた。目的地へ向うに最適な順路ができてあるらしい。が、様こそ変っても基本構図が昔のまま残る北口改札を出た。そこから西へ向えば谷中方面だ。霊園入口も朝倉彫塑館も、観光地として名を挙げた谷中銀座もある。今宵は東側に向う。エスカレーターやエレベーターが完備されて、階上は立派な駅ビルとなっているらしい。上ってみたことはない。
 駅前ロータリー周辺にも、ホテルだろうか、ビジネスビルだろうか、集合住宅だろうか、いく棟もの高層ビルが林立してある。近年めっきり首が固くなり果てた私には、視あげるのにも往生するほどだ。
 南側へと折れる。と、やがて南改札口への上り階段があった。なんのことはない、グルッと回り道をしたわけだ。
 旧王子街道を南へと歩き、名代の羽二重団子本店を右手に視ながらなおも南下したあたりが、今宵の目的地だ。


 ビル群に埋もれるように、瓢箪柄を白く染め残したクチナシ色の、無口な暖簾が出ている。道行くひとの眼を惹く看板などない。ご店主おひとりで切盛りする、昼は食堂で、夜は居酒屋だ。われら昭和の飲み助が大好物とする、穴場的空間である。通りすがりに立寄るには、さぞ度胸が要ることだろう。
 世話を焼いてくれる仲間があって、花見ごろ、避暑ごろ、紅葉ごろ、忘年会もしくは新年会と、年に数回の顔合わせを続けてきた。今回の世話役からの案内メール表題は「残暑を生き抜いたか? 生存確認飲み会」だった。
 私は失礼ながら勝手に「落ちこぼれ会」と称してきた。中学高校時の問題少年の集りだ。むろん私以外は、落ちこぼれなどではない。ただ大企業社員だ官僚だ、学者だ医者だ法律家だという人生進路をあえて採らずに、己の腕っぷし一本で、いわば技芸で人生を押しとおした連中である。放送マンと出版人が、インテリアデザイナーと広告デザイナーが、社会運動家とそれに生涯売れっ子にならなかった文筆屋があるというわけだ。家具や生活雑貨の企画開発会社社長と左翼系弁護士とが、あい次いで欠けた。 

 健康不安を抱えていない者など、ひとりもない。躰の一部にチタン合金が入っているだの、がん手術を五回も経験しただの、片耳が聞えないだの、その道の猛者ばかりである。が、病院の待合室での病気自慢のごとくにはならない。ゴルフだヨットだドライブだのの話題も、出なくなって久しい。
 過去の武勇伝についての、互いの記憶違いの擦り合わせが出る。かつての仲間で音信途絶えた者たちについて、消息情報の交換がおこなわれる。逝った仲間の遺稿集の下相談が進む。

 酒量がめっきり減った、物憶えが悪くなった、こらえ性がなくなった、弱くなった駄目になったと、口ぐちに云う。が、旧くからの仲間を褒めるみたいで気が進まぬが、私はこの連中の凄さを知っている。そうやすやすとくたばる連中ではない。打ちごろのスウィートスポットへ球が来ようものなら剛腕一振、今なおとんでもない大飛球をかっとばす、極め付きの不良たちである。