一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言


 イヌタデだろうか。紅とも赤紫とも断じがたい、珍しい花色だ。玄関前一帯に満開である。とはいえ人間の眼にはいっこうに目立たない。

 今年は春と夏の草むしり時期が偶然効果的だったものか、地表がシダとドクダミヤブガラシに覆い尽されてしまうということがない。ほかの小型野草にも頑張る余地がいくぶんか残されてある。これまで報われぬ孤軍奮闘を強いられてきた小声族が、控えめながらも声を上げている。
 毎年この時期には咲いてきたのだろう。より長身で勢い旺盛な連中の葉陰に埋れてしまう宿命を甘受してきたのだったろう。やっと巡ってきたチャンスである。長らく機を窺って辛抱した甲斐があったというもんだ。

 漢字では犬蓼だ。「蓼喰う虫も好きずき」のタデである。同科別属のヤナギタデは刺身のツマや焼魚の飾り物として添えられるというから、毒消しかなにか、漢方の薬効があるのだろう。強烈な苦みが特色で、並の舌ならざらつくほどなのに、こんな苦い葉っぱを好んで食う虫もあるのだ、というのが諺の表面的意味だろう。むろん本意は、好き嫌いは人それぞれ、ということだろう。
 ところがイヌタデには苦みがないそうだ。特色である苦みがない以上、存在理由の乏しいたんなる不味い草、食えない草ということになる。タデの偽物、紛い物、タデもどき、といった蔑視的和名である。
 名詞の頭に「犬」を添えて、役立たず、くだらぬ物、無駄な物を意味した例は多い。辞書には「犬侍」「犬死に」の例が出ている。間者や密偵をイヌ呼ばわりする例も、指摘されてある。
 「犬畜生」なんぞという罵倒の言葉も、語源が「犬や畜生たち」なのか「犬のごとき畜生」なのか、それとも「畜生のなかでもことに犬的な(くだらぬ)野郎」なのか、私は知らない。無知の先入観に過ぎぬが、たんなる「畜生」よりも「犬畜生」のほうが蔑視の度が深く、罵倒の語勢が強いように感じる。

 いずれにせよ今日の愛犬家や動物愛護論客からは、眉をひそめられそうな噺だ。しかし祖先が「犬」にさような印象を抱き、さような用例を残したとの事実から眼を背けてはなるまい。犬が馬よりも牛よりも歴史の長い家畜であったことや、猫よりも古くからの愛玩動物であったことと、矛盾背反する問題ではない。
 『新撰菟玖波集』は連歌集だが『新撰犬筑波集』は俳諧連歌集である。成立期には三十年ほどの開きしかない。文学が事実上姿を消してしまっていた時代に、たとえ遊興の言葉遊びのなかではあっても、王朝の和歌美意識を維持したいとする意図と、さような美意識とは別れていっそ庶民的滑稽でよろしいのではないかとする意図とが、交錯する時代だったろうか。
 およそ百年後に訪れる、商業資本主義と富裕町人階級の勃興とを背景とする、元禄の巨大文学を先取りしたものとして後代から眺めれば、山崎宗鑑の名とともに『犬筑波』を重要視するのはもっともだ。が、成立期の認識にあっては、『菟玖波』の亜流・変化技・パロディーとの一歩へりくだった意識あったればこその『犬筑波』だったろう。「犬」とはさような意味合いで用いられた語だった。

 誰、君たち? つねならば眼に留まらぬだろう、か弱い野草たちがなん種類か、束の間の花を咲かせている。拙宅敷地内における非主流であり少数派である。今は同種の仲間と群れることもなく、ひと株単独でつましく咲いている。だが、とんだ「犬」かもしれない。へりくだったような顔つきをしていながら、将来は一大勢力となる気でいるかもしれない。油断せぬように、目星を付けておこう。