一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

送り火に添えて



 送り火の焚きつけとして、燃やしてしまおうかとも思った旧蔵書がある。しかしただ今では、へたに煙なんぞ立てようものなら、どこからか通報されて、消防車が飛んで来ないとも限らない。

 母が療養専一の暮しになって、植物採集のハイキングはおろか買物にさえ、自由に出歩けなくなったころ、私は『ひまわり』の復刻版を買ってみた。せめて退屈しのぎにでもなればと考えたのだった。
 おや懐かしいと、母は手に執ってひととおり眺めてはみたものの、その後ためつすがめつ読み返すというふうでもなかった。病床見舞としては、成功したとは申しがたい。

 思えば当然だ。『ひまわり』が中原淳一により創刊され、昭和二十年代の中流もしくは富裕層の少女たちにロマンチックな夢を提供していたころ、母も二十歳代ではあったが、無給インターンから超薄給医局員だった父のもとに嫁しており、明日とはいわず今夕の米をいかにするかに毎日気を取られていた。おまけになんと乱暴なことに、私が産れてきたのだった。
 瞳に星の入った、可愛らしい少女イラストに彩られた月刊誌を眼にするたびに、かような雑誌も世の中にはあるのだ、かような時代になったのだとは思ったことだろうが、ページを開いて眺め愉しむ気になど、とうていなれなかったにちがいない。憧れどころか、嫉妬の対象にすらなりえなかったのではなかろうか。
 『復刻版 ひまわり』は、外箱のみが経年によるほこり汚れにくすみ、内箱と本体とはほぼ手つかずのままに、書架の隅に残された。


 よろづ外遊びが好きな悪ガキだった私から手が離れると、母は生き物の世話を好んだ。縁日の金魚すくいの和金に始まり、琉金へと進んだ。出目金は躰が弱いといい、ランチュウは気味が悪いといって手を出さなかった。つぼみ型の玉鉢から水槽へと進んだ。
 後年は熱帯魚に進んだ。飼育容易なグッピーに始まったが、繁殖し過ぎるとの理由で、敬遠するようになった。水面近くを泳ぐ種類と小石を敷き詰めた底面近くを好む種類とに分れるが、中層を賢そうに往来するネオンテトラが贔屓のようだった。
 鳥は十姉妹に始まり、セキセイインコに言葉を教え、文鳥へと進んだ。
 時代を隔てて三頭の犬の生涯と付合った。名目上は私が飼っていることになっていたが、犬たちによる序列にあっては、母が上だった。露骨に私を軽視する犬もあった。犬たちとの別れにさいして母は、法律的には生ゴミ焼却業となるのだろうが、ペット供養をしてくださる寺を見つけてきて、ねんごろに納骨式までした。

 しかしなんといっても、母が手をかけたのは植物との付合いだ。詳細は、短くは書ききれない。関連の書籍・雑誌類については用済みと判断するたびに処分してはきたものの、一部は残っている。写真集もあれば、栽培指南書もある。写真集は時代じだいの流行によるし、指南書はいわば実用書だ。年経て価値の増すものではありえない。つまりは紙屑だ。
 ところが昵懇の古書肆ご店主は、捨てるな焼くな処分するなとおっしゃる。素人判断でゴミに見えても、しかるべき筋を通せば、風俗資料・歴史資料・珍品だったりする場合もないではない。勝手な判断をせずに、いったん丸ごと全部よこしなさいと、おっしゃる。当方にとっても、ありがたいご指導だ。
 という次第で、送り火に添えて天への土産に持たせようかと一度は考えたものたちについても、古書肆のお手を煩わせることにする。園芸関連の雑本ことごとくを、出す。

   
 田辺聖子 監修『復刻版 ひまわり』全8冊+別冊(国書刊行会1984)内箱・外箱とも揃い。出す。
 五百城文哉 画『日本山草図譜』(八坂書房、1982)。出す。