一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

気が変る


 土壇場で、ふと気が変った。

 藝祭の三日間は、じつに好天に恵まれた。残暑のぶり返しとも称べそうな陽気だった。気温を看ながら、季節相応のなりで家を出たのだったが、三日とも上着を脱ぐ場面が発生した。学内を散策して歩くうちに、インナーも肌着も汗に湿った。
 過去には、雨にたたられて来場者の激減を心配した年もあった。ふいのにわか雨に、屋台や屋外での催物を愉しんでおられたお客さまが急遽屋内へと避難し、おかげで堂々堂への来店客が増えたなんぞという、皮肉な現象が起きた年もあった。
 長年やっていると、日和ひとつとっても、あれこれと想い出されることがある。現役会員にとっては一回性の運不運であっても、私や設立時を知る古手の OB 会員には、共有されている悲喜こもごもの記憶がある。二十年以上もやっていれば、これはこれで歴史だ。

 古本屋研究会には、けっして玄人の物真似はしないこと、という暗黙の不文律がある。学生のサークル活動らしい質素倹約を旨としたい。品揃えにも運営にも店造りにも、垢抜けぬ手造り感を喪いたくない。
 典型的な例は、包装紙を持たぬことである。袋物をご用意のお客さまには、一冊二冊のお買上げであれば、裸で本をお渡しする。まとめ買いのお客さまや袋物をお持ちでないかたには、手提げ型の紙袋に入れてお持ち帰りいただく。
 サイズといい厚みといい、紙袋の形状も材質も、デザインも丈夫さもまちまちである。会員全員が一年間の暮しのなかで、処分せずに収集しておいたものを持ち寄っている。『サマセット・モーム短篇集』文庫版揃いが、両口屋是清の袋で買われてゆく。『宮沢賢治全集』不揃い本がカネボウ化粧品タワーレコードのふた袋で買われてゆく。『高野山宝物写真集』箱入り大型本がビックカメラの袋で買われてゆく。わが堂々堂にあっては、平気だ。恥かしくなんかない。むしろ名物となりかかっているほどだ。

 商品搬入用のダンボール箱なども、紙に腰が残っているうちはガムテープで補強しながらなん年でも使い続ける。さすがにクタクタになった箱があまりに増えてしまったので、今年はかなり入替えた。会員たちが手分けしてスーパーを歩き回り、丈夫な箱を調達してきた。スーパーにとっては廃棄すべきゴミであっても、古本屋研究会にとっては新品同様資財である。
 火曜日は紙類のゴミ収集日だ。使用目処期間をなん倍も経過したクタクタのダンボールはめでたく勤労感謝となり、私が結束した。ところが昨夜半からの雨と強風である。午後からは晴れるらしいが、午前中はなお不安定だという。濡れダンボールは再生利用するにも面倒だと、なにかの機会に耳にした記憶がある。
 本日出そうとの心づもりだったが、気が変って、来週に持ち越しとする。

 なん日か前のこと、学友大北君の農園から、蕪と生姜が届いた。なんにでも生姜を合せる、もしくは刻み込む私は、生姜については即日いただき始めたが、さて蕪をいかにいただくかである。
 スライスしての浅漬けが基本だ。結局はこれが一番美味いと考えている。が、しばらく鶏肉を口にしてないと気づき、油揚げと一緒に煮てみようかと思い立った。ブリ大根のブリを鶏肉に換えてトリ大根、さらに大根を蕪に換えるという思いつきだ。藝祭期間中は台所の時間がとれそうもないので、藝祭終了と同時に手を着けるとして、味付けは醤油か味噌かなんぞと考えていた。

 さて台所。なにがきっかけかは自分でも計りかねるが、また気が変った。でき上ったのは、蕪の(肉なし)ビーフシチューだった。じゃが芋と人参と玉ねぎと生姜の応援を頼んだ。
 酸味に似た蕪独特の味が、シチューのなかでどうなるだろうかと、ふと興味を抱いてしまったようだ。人さまを巻込まぬ限りは、すべからく思いつきを実行してみるのが私の流儀である。
 幸いにして、味は申し分なかった。