一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

油断禁物


 上は昨年十一月十三日付の日記に用いた写真。下は今朝である。

 歩道目安の白線のかすれが、着実に進行している。オイッ、そこじゃねえだろう!
 ブロック塀の汚れに、ほとんど変化が認められない。一年やそこらの汚れではないことを示している。オイオイッ、そこでもねえだろう!
 昨年同日の日記表題は「桜葉降る」だった。今朝はまだ、拙宅老兵が往来にご迷惑をおかけするに至ってない。
 ここ数日が、無風だったわけではない。むしろボロ屋の玄関扉や木戸はのべつ音をたてていた。風の事情とは考えられない。
 夏から秋への寒暖差が激しい年には紅葉が進むと云われるが、連続猛暑日が取沙汰されたあげくに、ろくに行楽日和もないままに肌寒くなった今年なんぞは、さしづめ紅葉絶好年のはずだのに。

 親方に入っていただいた時期が好かったのだろうか。枝詰め葉刈りの頃合いがよろしかったおかげで、その後に芽吹いた新葉が丈夫で、まだ落葉の気配を見せないのだろうか。おおいに考えられるところだ。
 だとするならば偶然の所産だ。いくら経験豊富な親方だとて、桜樹の微妙な意向までをも汲取ってくださったとまでは思えない。そろそろかなと思うころ、私から電話申しあげて、日取りはお任せいたしますからとお願いする。天気予報その他の情勢を見計らって、ではこの日からと、親方からのお返事電話が来る。毎年さように進行してきた。限られた条件範囲のなかで、桜樹の要望を汲むといっても、親方の選択肢も多くはなかったはずだ。

 樹木にいくら習性というものがあるにせよ、昨年の桜と今年の桜とが同一であるはずがない。またいくら経験値豊富で腕達者な親方だからといっても、年どしの桜樹の意向をことごとく聴き取るわけにはまいるまい。ことごとくが移り行くものである。変化をやめぬものである。色即是空である。
 「空」とは「無」ではない。実在しないのではない。存在するように見えて、じつはつねに移ろい続けてやまないということだ。移ろってやまぬもの同士のたまさかの、つまりはかりそめの出逢いが「縁」ということのようだ。縁の姿が現象らしい。『般若心経』が説くところは、どうやらさようなことと読める。
 今年は老桜樹の意向と親方の腕前との縁が、かなりよろしかったものと考えられる。

 根かた近くに立って梢方向を視あげても、まだ兆候は窺えない。わくら葉のいく枚かが黄ばんでいるのみだ。たまさか小枝か葉柄かに傷でもできて、水分か養分の補給がままならなかったのだろう。虫か鳥の仕業かもしれない。運の悪い奴というもんは、どの世界にもある。
 いすれの枝にあっても葉群は青あおとして、今朝も風がなくはなかったのだが、サワサワ鳴るだけで、散りくる気配はない。
 しかし樹であれ草であれ植物というものはおしなべて、昨日までは気振りも見せずにいたくせして、まるで申し合せてあったかのように、ある朝突然に行動開始する場合がある。油断禁物である。