一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

肉眼の粘り



 熊谷守一美術館の外壁に彫られてある、逞しい蟻たちのうちの二匹だ。右の一匹は恥かしながら、ウェブ上での私のアイコンたる一朴蟻である。

 「文化庁からお電話。なんでも文化勲章をくださるとかで、受取るかとお訊ねだけど、出てみる?」
 「いや、いらない……」
 熊谷守一と夫人との、有名な会話だ。美術館は画伯ご夫妻のお住い跡地に建っている。そこ豊島区千早の地に、ご夫妻は長年住まわれた。
 往来からの眼を遮るように鬱蒼と繁茂した樹木と草ぐさに護られた、平屋の日本家屋だった。晩年の画伯はほとんど外出することもなく、庭にしゃがみこんだり縁側に寝転んだりしながら、猫と戯れ、小動物や草木を観察して過した。花ばなや小鳥たち昆虫たちの画は、いずれも画風を率直に表して惹かれるが、なかでも蟻の画は強く印象に残る。

 モリカズ蟻の特色の第一は、真上からの視点にて描かれてあることだ。第二は蟻に触覚がないことだ。庭にしゃがみ込んで真上から観察した初発の肉眼が、いかに本質追求のデフォルメを経たあとでも、貫かれてあるわけだ。また激しく動いてやまぬ蟻の動作のうちでも、ことに脚の運動に画伯は心惹かれたようだ。館の外壁のみならず、いずれの蟻画においても、脚は力強く逞しい。
 いったん立ち停まって、間をおいてからふたたび歩き出す蟻は、左の中脚から踏出すという、画伯による「新発見」はつとに有名だ。昆虫学者による評価を調べてみたことはないが。

 お若い友人がたに手を牽いてもらいながら、SNS だのブログだのを始めるとき、むろん画伯の蟻についてはすでに長年心惹かれてきていた。畏れ多い気がした。が、私はどうしても蟻の横顔を描いてみたかった。できればうしろ姿をも描いてみたかった。そして、蟻といえば特色は触覚だろうとの先入観もあった。結果として、画伯の蟻画とは似ても似つかぬ図案となった。
 図鑑を開けば、こんな蟻はいやしない。画伯の蟻がいないのと五十歩百歩だ。が、図鑑に視当らぬ点だけが五十歩百歩なのであって、蟻画としては千歩万歩の隔たりがあることは申すまでもない。
 モリカズ蟻は、観察に観察を重ねた末にデフォルメされたものだ。いかに図鑑から遠ざかっていようとも、頑強な肉眼に出発して遥かな思索の果てに、大胆に遊ばれたものだ。蟻とはつまりはかようなものだとの視切りによって、省略され再描写された図像である。いっぽう一朴蟻は、いかに描けばご覧になったかたから蟻ンコだと認知していただけるかと思案して、いわば説明目的で恣意的に図鑑から離れたものに過ぎない。具象を離れた装飾的意図による図案化といってみたところで、まったく次元の異なる抽象作業である。

 片や明治期の大家、というよりも日本洋画壇の開祖的存在の一人による裸婦像。もう一方は昭和期の大家による裸婦像である。ともに並外れた肉眼が駆使された作品ではあるものの、肉眼と画面との距離が断然異なる。肉眼に終始した世界と、肉眼から遥かに歩み出した世界との相違だ。肉眼が肉眼であることの誇りや歓びがとことん追求された画面と、肉眼を基礎にして飛翔した思索の多寡を主張した画面との相違ともいえる。
 ヨーロッパ画壇の流行から影響を受けたことはむろんだが、わずか半世紀のあいだに、絵画観はこれほどに変容した。その変容を進歩発展と称ぶことはいちおう可能だろうが、変容の過程はまた、俗化や恣意性が紛れこむ余地でもあったろう。銘めいの感受性は固有だといくら云ってみたところで、肉眼は肉眼だ。各人共通する基底部分は分厚い。ところが思索となれば、それぞれに際限なく枝分れしてゆくことは避けられまい。無数の枝分れのなかにはうっかりすると、肉眼を根拠としない一朴蟻のごときまがい物が、紛れ込んでしまう危険もないではない。

 芸術がエリート文化から脱して大衆文化となることは、まずは成熟であり進歩であって、慶ばしきことだ。が、大衆性・娯楽性を金科玉条の名目としての、本籍不詳の浮遊民がごとき「作品」の横行には、ちょいと気をつけておいたほうが無難だ。
 近ぢか新人賞の選考といったお役目を拝命するので、近年めっきり鈍ってきた自分の感性に喝を入れるべく、さようなことを思い出したわけだ。