一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

辛味の正体



 韓国風味の即席ラーメンを、お土産にいただいた。

 商品名も裏面の調理法や成分表その他も、すべて日本語で表示されてあるところを視ると、日本人消費者向けに調整されたものなのだろう。袋の隅に黄赤ベタ白抜きで「ピリ辛」と、また別の隅には芋材料による「もっちり麺」と印刷されてある。いずれにもせよ、私には初体験の食糧だ。

 日清のチキンラーメンエースコックの即席ラーメンを、発売直後に食べてみて、ああだこうだと云いつのった世代に属している。むやみやたらに腹を空かせた齢ごろや、すっかり夜型人間となり果てた受験生時分には、まことにお世話になった。自分で鍋に湯を沸かして、菜箸を用いた最初の経験だったかもしれない。
 揚げ麺時代から、スープの素の小袋が同封されるようになった時代、かやく小袋が出現した時代と、順繰りに目撃してきた。即席焼きそばが登場したとき、蓋のひと隅に湯切り穴のある構造には、こういうものを工夫というのだと、ほとほと感服した。宮大工の釘なし木組みと同じくらいに舌を巻いた。

 カップヌードルの登場や、赤い狐と緑の狸にも、同時進行で反応した。変化技のカレーヌードルに、もっとも数多くお世話になったかと思う。
 出張族だった時分、お得意さんにお供して飲み歩き、無理にも陽気を装ってはしゃぎ尽したあげくに、ドッと疲れての深夜、市内最安値のビジネスホテルへとトボトボ帰る道すがらにコンビニの灯が見えると、ホッとしたもんだ。極限まで切縮められたルームでベッドに腰掛けて、カレーヌードルをすすった。恥辱や後悔をほんの少し溶かし出してくれる味だった。

 カップ麺類のお世話になるのは、出張先に限られる。自宅にあってはもっぱら袋麺だ。発泡スチロール製の容器をゴミ袋に放ることが好きになれない。食事の程度の割にゴミが大き過ぎる感じがするのだ。徹底的に潰したり、鋏で細かく切ってから捨てることになるが、だったら初めから袋麺を選ぶほうが無難だ。
 現在では、銘柄・商品ともあまりに多彩となり過ぎて、どう選んだものかと途方に暮れる。行きつけのスーパーに取揃えてあるわずか数種類を食べ較べてみて、昨今は東洋水産マルちゃん正麺と決めてある。醤油か塩である。かつては味噌味も豚骨味も好物だった。しかし老化とともに、コクがあり過ぎる味には抵抗を感じるようになってきた。
 つまりは、薄切りチャーシュウ一枚にナルト一枚にメンマひと箸、焼海苔の上に胡椒を振った、幼少期の「支那そば」へと回帰したわけだ。そして少し成長してからの、野菜いっぱいタンメンへと回帰したわけだ。

 開封してみたら、粉調味料と乾燥野菜との小袋がふたつ同封されていて、どちらも麺と同時に湯に投じて煮込んでしまうタイプだった。茹で時間四分と表示してあるのは、麺のコシに自信ありということだ。その間一緒に煮込んでしまえということは、調味料が微妙な風味よりは直線的な辛味に特色ありということだろう。
 五味のうちでも辛味は、もともと好きなほうだ。ただし激辛を追究する気はない。辛さなん倍といった謳い文句に興味を抱いたことは一度もない。ピリ辛で十分だ。ところがこの「ピリ辛」が曲者で、基準がひどく曖昧だ。ピリ辛と云ったじゃないか、こりゃ大辛だろう! という場合だってなくはない。
 昨今の味覚流行からして韓国風味「カムジャ麺」にも、おそらくはその懸念があろう。せっかくだから調味料はすべて使うとして、玉ねぎを半個切って湯に投じた。三十秒煮てから、麺と小袋類の中身を投じた。成功だった。それでも十分に辛かったのである。

 今日は空模様も悪く、肌寒くさえある。それでもなお、これはもう少し寒くなってからの食い物だなと感じた。味は悪くない。玉ねぎに加えてなにか具材を合せても、十分に支え切ってしまう強い味だった。
 感じ入ったのは食後だ。辛味も熱味も舌に残っているから、カルピスでも口にしようかと思い立ったのだったが、ついあまのじゃく気が生じて、熱いインスタント珈琲にした。アレ不思議。口中の辛味はいっさい消えて、じつにさっぱりしてしまった。
 まさか珈琲が好かったのではあるまい。辛味は舌の表面を軽く覆っているだけで、舌に刺さることがないように、調整されてあるのだろう。深い緑色の唐辛子を獅子唐の尖った奴だと勘違いしてガリッとやってしまうと舌がしびれて、寝て起きてもまだ辛いもんだが、さように頑強な辛味はまったくなかった。商品開発の競争のなかで、研究が進んできたにちがいない。

 十分に辛く、しかしあとに残らない。その秘訣が私ごときに想像つくはずもないが、世間のどこかには、その研究に必死な人があるのだ。それは想像できる。
 「客席でお笑いくださってね、下足を通ってお戻りのときには、サゲの小気味良さだけが印象に残って噺の中身は忘れちまってる。そういうのが好い噺なんでしてね」
 昭和の名人と称ばれた落語家さんの言葉だ。
 真剣もしくは深刻な内容を、いかに軽く読ませるか。命を削って挑んできた作家たちを視てきた身には、当然そうだよね、との想いも湧く。