一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

身に残る


 ナイスシュート! なるやならざるや。平均年齢七十歳超の選手たちによる、ゴール下の激しい攻防。ボールの行方には、だれもが責任取りかねる。

 バスケットボール部 OB 有志による忘年試合だ。粋な世話役の計らいにより試合とは称ばれず「玉拾い大会」と命名されてある。
 私は出場できない。心臓にも大腸にも人の手が入った身で、また日ごろの引籠り暮しによる極端な運動不足の身で、コートに立てるわけがない。準備体操と整理体操にだけ参加させてもらって、あとは道具運びや掃除の一員として、ベンチで観戦するのみだ。


 選手たちがハーフタイムのあいだに、コート内に足を踏み入れ、ゴール下に立ってみる。いつの間に、ルールが変更されたものか、ゴールリングが高くなっている。あんなところを握ったり、ボールを争うあまりに指をボードにぶつけて怪我したり、できたはずがない。

 ボールを放ってみようかという気が、一瞬起きかけたが、やめた。ボールに対してもゴールリングやバックボードに対しても、失礼だ。
 同学年のチームメイトよりも、ひと足早く退部した。五十八年ほど前のことだ。辛い選択だった。いくつかの条件が重なったのだったが、思いっきり体裁好く申せば、スポーツを採るか文学を採るかの選択だった。不器用な性格が災いして、ふた途ともに懸命であることができなかった。切替え能力や適応能力の未熟、つまりは生きる才能の不足だった。
 二度とシューズを履くまい、二度とシュートを放るまい。誓いでも立てるかのように、大袈裟に決断したのだった。ボールもリングもボードも、ラインを跨いでコートインすることすらが、自分には許されぬ神聖なものとなっていった。

 誓いは三年後に呆気なく破られた。大学の体育選択科目で、バスケットボールを選択したのだ。学園紛争さなかの時代ゆえ、登校日数は極端に少ない。そんな環境で、要領よく単位を取得するには、心得ある種目を選ぶことが楽だったのだ。じつに不純な動機である。
 単位は取得できた。羞恥心というほどではないが、こんなことで善かったのかとの疑問は残った。以後、公園などに設置されたバックボードとゴールリングを眼にする機会があっても、シュートを放ってみたことはなかった。

 酒席の OB会に顔出しする機会はあっても、コートにまで足を向けることはなかった。数年前に、かつて二年後輩三年後輩だった世話役連中からの、熱心かつありがたいお誘いをいただいて、ベンチウォーマーの一員に加えていただくようになった。
 しかしシュートを放る気は起きない。

 場所を移しての打上げ。酒席となれば噺は別だ。シュートだろうがドリブルだろうが、スチールだろうがファールだろうが、なんでもする。余計な過去の愚痴を口にしかけて、世話役から注意も受ける。イエローカードだ。酔余に地金が覗いてしまったわけだ。
 勇敢な老選手たちはだれも、ひとたび仮面を脱ごうものなら、現役を勤め上げたおっかない人や凄い人たちである。地金をご自宅に置いてきて参加している。「それはさておき今宵はバスケでしょう」の世界だ。私ごとき、時代から置去りにされてると承知のうえで、余生は一介の色惚けジジイたる地金を晒して生きよう、なんぞという輩とは、わけが違う面めんだ。

 わずかに身に残っていたことがひとつあった。当時も足の甲から前足首へかけての形が変で、シューズの紐は正面よりも内側寄りで結んだほうが、よく締ったもんだった。持参した上履きで母校体育館へ入ろうとして、思い出し苦笑した。ただしジョギング用の運動靴を室内専用に使っているだけで、バスケットシューズではない。