一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

年越し籠城用糧秣



 寄る辺なき独居自炊の身をお気遣いくださり、つね日ごろ無沙汰欠礼の限りを尽しているにもかかわらず、親戚ご一統から、わが年越し籠城への食糧支援が次つぎ贈られてくる。世界の戦闘地域住民には顔向けしづらいが、当方の人道支援はいたって豊富だ。

 埼玉県のニュータウン在住の叔父からは、帝国ホテル仕様のスープ。ミネストローネ六缶、コーンスープ・人参スープ・かぼちゃスープ各ふた缶、都合十二缶詰合せ。年末年始に台所も億劫だろうし、栄養が偏ってもいかんとの、お心遣いである。
 叔父と夫人の義叔母とは、わが親戚の最長老だ。父方母方双方を眺め渡ししても、健在の伯父伯母・叔父伯母はほかにない。ご夫妻ともに物理学者で、アメリカに住んだり日本へ帰ったりの半生だった。まだ科学の花形が電子やバイオに移る前の時代だったから、当然原子物理学だった。キュリー夫妻みたいだ。
 お子たちも呆れるほど優秀で、長男こそ途中で学界を離れて民間の研究施設へと天くだったものの、次男と長女は今も学者のままだ。私にとっては齢下の従弟従妹たちのはずだが、たまさか噺を聴く機会があったところで、なにを云ってるものやらさっぱり解らない。国内に住んでるものやら、国外へ出ているものやらすら、知らない。
 先方から当方を眺めても、フーテンの寅さんのごとく、どちらのご家系にも親戚に一人はいる不出来なオジサンと見えることだろう。
 「千年ほど前にね、出世を諦めた『伊勢物語』の主人公が脱サラして放浪の旅に出ちまったところから、日本で小説ってのが始まったんだ」
 呆気に取られて、沈黙されてしまうのがオチだ。


 新潟県在住の、若死にした従弟の夫人・長男・長女からは、農協セット(今はそう称ばない)。米だ、蕎麦だ、餅だ、白餅とヨモギがあるぞ、きなこまで付いてる。米処であるぞ、文句あるかってなもんだ。
 老人一人家族に、あってもぜったいに困らぬもの。これぞ実弾とのお心遣いだろう。さよう、まことにありがたい。
 剽軽で明るい性格の従弟は、目上の親戚のだれからも可愛がられる、親戚中の人気者だった。亡母の口の端にもっとも回数多く名の出る甥っ子だった。惜しくも若くして他界した。が、その夫人やお子たちとは、遠方につき日ごろ無沙汰がちではあるものの、今も細い糸が繋がっている。義理の従妹と、そのお子たちだ。系図上では、より近しい人もあるはずなのに、ご縁とは不思議なもんだ。故人の人柄の徳というものだろう。

 東京郊外の市街地で歯科医院を開業する従妹と夫君からは、中村屋仕様のカレー・ビーフシチュー詰合せ。日ごろ私が口にすることのない高級品だ。
 亡き叔父・義叔母夫妻はともに歯科医で、戦後この地に開業した時分には、市制を敷かれた有名地とはいえ、あたりいたるところに麦畑や雑木林があった。今となってはどこがどこだったのか、思い出すのもむずかしい。古刹の山門を目印に、かろうじて方向を視定めることができるのみだ。
 従妹と夫君とが医院を継承したから、都合この地で開業なん年になるのだろうか。患者さんも親の代からというような、地元の名医院なのだろう。

 「オセチもいけどカレーもねっ」という年末年始限定のテレビ CM が、昭和時代にあった。非日常的な食生活から日常へと復帰するには、カレーが手っとり早いとのアイデアだったろう。さようには違いあるまいが、復帰という点では、私には別の意義と用途とがある。
 私は常備食・保存食としての野菜カレーや肉抜きビーフシチュー(?)を日常的に作っている男だ。肉じゃがやトリごぼうや揚げびたしなどと同様に、作り置いていつでも食べられることが眼目で、とくにカレー味にこだわりがあるわけではない。大脱線してさえいなければ、味なんぞ一定である必要もない。大根や蕪はカレーにならぬものかだの、隠し味に味噌を使ったらどうなるかだの、咄嗟の思いつきを実行に移しては退却を繰返している。今や、味の本線が奈辺にあったのかが、判らなくなっている。
 たまには舌を、本線に戻そう。「自前もいいけど中村屋もねっ」である。