一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

エエかっこシー

 



 この時期の雨が嫌いな理由。併せてアスファルトの進歩。

 拙宅老桜樹の葉が、両隣の往来まで汚す。風向きによっては、向う三軒のご門前まで汚す。落葉掃きは責任義務だ。できれば毎日が望ましい。が、怠け心が生じる。この程度であればさしたるご迷惑というほどでもなかろうとの、たか括りも生じる。およそ一日おきの作業となる。敷地内に穴を掘り、掃き集め、埋めるといった三拍子で、小一時間の作業だ。
 夜中に作業することが多い。人どおりも車の行き来もめったにないから、安心作業だ。街灯やら軒灯やら、あたりの集合住宅での点けっぱなし廊下灯などが集って、なんとか作業できる。

 その時間を逃したら、早朝回しとなる。はるかに作業しやすい。ただし早朝散歩のかたや、ラジオ体操の公園に向われるかたや、ジョガーやウォーカーがたと顔を合せる。無視してくださればよろしいのに、
 「おはようございます」「ご苦労さまです」「ご精がでますね」
 と来る。「おはようございます」には気持よく挨拶を返して、清々しい気分となるが、それ以上は、どうにも照れ臭い。恥かしい。面目ない。当方は志ある善意の者ではない。奉仕の精神でもない。責任義務でやっているだけのことだ。両隣が空地とコインパーキングだから、ちょいと範囲を延長して掃いているまでのことだ。
 善意の者と思われたくて、これ視よがしに俺はかようなことをしているのだろうか。それはいかにも、ひねくれた自意識というものだと、穏やかな常識論を立てることは容易だ。だが一歩踏込んで、わが意識下にさようなエエかっこシーが潜んでいないかと考えると、なんだか怪しい。こんなところでデカルトの内省やモンテーニュの実践を思い出しては、なんぼなんでも大袈裟に過ぎるが、点検してみればずいぶん気持悪い領域にまで踏込んでしまいそうな気がする。だから考えをやめた。

 まれに車も通過する。この時間帯は軽トラックやワゴン車ほか、早出の仕事に向われる車がほとんどだ。性能を誇示するがごとき高級車も、スピートを愉しむ観光ドライブ車も、通りかかる気づかいはない。掃き寄せた枯葉が車の通過風に巻上げられることなど、まずありえない。それどころか、十字路のだいぶ手前から、減速してくださったりもする。見すぼらしい老人が沿道で箒・塵取りを使っているというので、いっそう要注意で通過してくださるのだろう。
 やむなく昼日なかに掃くこともある。強風に見舞われて落葉しきりとなり、夜半まで待てぬ場合などた。ご近所のかたや、通りかかった顔見知りのかたが、ずいぶんお声をかけてくださる。やはり後ろめたい気分に苛まれる。


 日程間隔では、昨夜は落葉掃きすべきだったが、あいにくの雨だった。夜明けには止んだので、出てみたら、案の定掃くべき状態だった。が、路面は濡れたままだ。こういう日は厄介なのだ。いったん水気を失った枯葉が妙な具合に再吸水して、アスファルト面に貼り着いているのである。
 アスファルト舗装の研究と技術においては、日本は世界屈指と聴いたことがあるが、その意味はたんに硬いだの平滑だのということではなさそうだ。絶妙にデコボコなのである。水捌けが好いのだろう。熱の放散力が高いのだろう。そしてタイヤや履物にとっての滑り止めとなっているのだろう。研究・技術の粋が集められてあるにちがいない。ただ一点、落葉に関してだけは、難敵である。
 再吸水した枯葉は、版画や活版印刷の用紙のように、アスファルト面のデコボコに圧しつけられ嵌まり込むかのように、路面に貼り着くのである。箒で掃いて剥れてくれる葉もあるが、バレンで擦ったかのようにますます貼り着く葉もある。いく度掃いても剥れてくれぬ葉については、往来にしゃがみ込んで指で一枚いちまい剥がさねばならない。

 道路中央付近にそんな葉があろうものなら、ドライバーさんがたにとっては大迷惑だ。道具や資材を積んで現場へと向う軽トラックや開店時刻に間に合うよう材料を運ぶワゴン車のドライバーさんにとってみれば、交通量少ない早朝は気楽な出勤時間のはずだ。だのになんと、行く手の道路中央に、長箒を肩に立てかけた老人がしゃがみ込んでいるのである。異様である。明らかに交通妨害だ。
 老人のほうではむろん、まだ遠くにある接近車輛をも聴き逃すまいと、近年めっきり遠くなった耳をせいぜい尖らせて作業してはいるのだけれども。
 これもエエかっこシーのこだわりだろうか。だとすれば、体裁を繕うなんぞということには、じつに不様で愚かしいコストがかかるものである。