一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

生活の知恵?



 メイカー品のレモンティーを愛飲しているわけではない。そこそこ気に入って、たまさか買ったさいのペットボトルを、保存活用しているまでのことだ。

 紅茶は毎日飲む。といっても、紅茶愛飲家からは眉をひそめられるにちがいない野蛮な飲みかただ。鍋の水にティーバッグを放り込んで煮てしまう。ごくごくトロ火で時間をかけはするけれども。沸騰前に火を止めて、間をおいてからバッグを引揚げ、砂糖を差し、鍋ごと水桶に浮べて冷ます。冷めたら水差しに移して冷蔵庫行きだ。
 愛飲家には一カップ分のティーバッグ一個で、六百ミリリットル強、マグカップにたっぷり三杯分は採れる。水代りにちょくちょく飲む。疫病騒ぎのころ、ご心配くださるお若い友人たちから、小まめですよ小まめにねと、口を酸っぱくしてご忠告いただいたので、今も守っているわけだ。

 別の飲料水もある。蜂蜜水だ。スーパーで一番安かった庶民用蜂蜜を常備して、料理にも飲料にも使っている。
 「午後の紅茶」空ボトルの底に八ミリほど蜂蜜を落し、ごくごく低温のぬるま湯およそ四百ミリリットルで割る。底面や四辺角にへばり着くように溜っている蜂蜜をシェイクして、均等にする。その昔、とあるバーテンダーから直々に教わった、本式のシェイキングポーズだ。
 五百ミリボトルを満杯にしてしまっては、シェイクが巧くゆかない。四百が限界である。また蜂蜜量を一センチ以上にしては、甘さが強過ぎわざとらしい。五ミリ以下では、味が淡過ぎて物足りない。
 これも冷蔵庫から取出しては、水代りに飲む。庶民用蜂蜜一ボトルから、「午後の紅茶」ボトルの蜂蜜水がいく本採れるものか、計算は当然してある。いかなる市販飲料よりも安上りだ。

 珈琲も飲む。紅茶同様にきわめて野蛮な飲みかただ。ドリップ容器も揃ってあるのだが、食器棚の高いところに収まったまま、最後に使ったのがさていつのことだったか、思い出せもしない。
 鍋の水に、スプーンで粉を放り込み、ごくごくトロ火で煮てしまう。手を休めずに掻き回す。沸騰前に火を止めたら少し間をおき、極細網目の水切りしゃもじで漉す。網目を通ったカスが混じるが、気にしない。これまた水差しに移して冷蔵庫行きだ。愛飲家にご馳走する度胸はないが、驚くほど廉価の珈琲が大量に採れる。

 文化人類学歴史学の合同研究調査団によるアフリカ諸国フィールドワークの、報告映像を観たことがある。エチオピア奥地の山村風景だった。竪穴式とたいして変らぬような草葺き住居の前で、地面の穴に薪が燃えている。支柱に渡された横木には飯盒のような容器が吊るされてあって、オカミサンが木の枝で中身の液体をゆっくりゆっくり、じつにゆっくりと掻き回している。見知らぬ国から遠来の客人たちに、オカミサンが村伝統の珈琲をご馳走してくれるとのことだ。本場の珈琲である。
 たしか平たい石板の上で、手に握った卵型の石で豆をつぶす場面からの映像があった。
 あたりに芳香が漂い始める。隊員たちの眼が輝き始めた。モオイインジャネエカナアと、画面の外から日本語が聞える。オカミサンは慌てず騒がず、小枝を動かす手を停めない。やがて、子どものリュックサックにぶらさがっているようなアルマイトの器に珈琲が注がれ、隊員一同に振舞われた。恐るおそる口にした隊員たちからいっせいに、どよめきのような声が漏れた。団長と思しき年配の研究者は、満面の笑みでオカミサンに向って思わず親指を立てた。オカミサンもニッコリした。
 映像を観ていた私にも、つまりは珈琲ってのは、ああいうもんだよな、との想いが湧いた。今もその想いはある。

 そんな私にもふとした気紛れが生じて、ふだんとは異なるメイカーの缶珈琲を、自販機で買ってみることもある。これはこれで、美味いよなあ、と思う。
 かようなわが飲料事情を、年金生活者による節約・倹約生活とは、まったく考えていない。その証拠には、手作り飲料による些細な節約をいく日も重ねた分など、たった一日で帳消しにしてしまうほとの、喫煙者だからである。