一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

怪傑村木さん


 卓抜な作戦も、遂行者の力量によっては、功を奏さぬ場合もある。

 村木さんという、とんでもなく魅力的はお婆ちゃんが、ご近所にいらっしゃった。半世紀も前のことである。独りで間借り暮しされ、そこで和裁教室をなさっていた。教室といっても、村木さんを慕うご近所の奥さんやお嬢さんがたが、曜日を決めて寄合い、愉しくお喋りしながら縫物をする、クラブ活動のごとき集りだった。技術付き井戸端会議の趣である。
 母もお弟子の一人で、決められた曜日には欠かさず出掛けていた。かつて旧制女学校の被服科生徒だった母は、裁縫もひととおりは身につけていたし、浴衣をほどいて洗い張りしたうえで縫い直すことなども、独りでやってのけた。わが家の物置には、六尺に余る洗い張り用の板が、いく枚か立てかけられてあった。
 だが本式に仕込んだお師匠さんからは、教わることがまだまだ多く、駄弁り半分裁縫半分の教室へ通うことを、心底愉しみにしているようだった。それまでは和裁以上に編み物に熱心だった母が、和裁に急旋回した時期だったと思う。
 村木さんご他界後の母は、また編み物熱へと戻り、本式の教室へも通って師範資格を取得し、みずから教室を催すことにもなったけれども、それは後年の噺だ。編み物を正式に厳しく教わりたいと通って見える奥さんやお嬢さんがたを相手に、母の教室運営はあまりにざっくばらんで、かつての和裁教室での村木さんのやりかたとソックリだったのが、なんともおかしかった。

 裁縫を教えてつましく暮す、上品なお婆ちゃんなんぞと想像するのはまったくの見当違いで、村木さんは豪快な女傑だった。一度は嫁したこともあったらしく、そこで裁縫をみっちり仕込まれたらしい。が、ご亭主と死別する。戦後は池袋西口で、屋台に毛が生えた程度の小料理屋を独りで切盛りして生き抜いたという。
 目下の池袋西口界隈では再々開発か、再々々開発かの途上だが、いよいよあの一画も一掃されてしまうのではと懸念の声も聴かれる、唯一戦後的チマチマ店舗の風情が残った、あのあたりである。
 やがて水商売の足を洗い、その後なにがあったかは知らぬが、とどの詰り芸が身を助けたと申すべきか、和裁を教えて独りひっそり間借り暮しをするようになった。
 母は裁縫の日以外にも、買物をご一緒したり縁側でお茶を呼ばれたりして、愉しくお付合いさせていただいたから、いろいろ聴き及んでいたことだろうが、それを私に漏らす母ではなかった。すべては二十代前半の私が、いく度か村木さんから酒をご馳走になり、わずかに聴き及んだ断片を、私なりの想像で繋げた噺だ。

 とは申せ村木さんは、酒好きではあっても呑兵衛ではなかった。もとは玄人だった人だ。とかく酒ってもんはと、思い知っていたのだろうか。しょせん酒なんてもんはと、視尽していたのかもしれない。それよりなにより、日常の暮しぶりが酒なんぞの助けを借りずとも、十分に明るく豪快で、開けっぴろげで、高声と呵々大笑で充満していた。
 ふだんは酒よりもお茶が大好きだった。玉露にも煎茶にも粉茶にも、強固なこだわりがあって、味にも香りにもうるさかった。急須から湯飲みに注ぐさいに、ポタリと最後の一滴、これが美味いのだ、この一滴で湯呑一杯のお茶全体が美味くなるのだと、毎度繰返した。

 村木さんのお喋りに、国を憂えたり世間を罵ったりする話題がなかったのは頷けるとしても、過去の苦労噺が混じることすらいっさいなかった。些末ではあっても具体的で、いずれも体験に裏打ちされた動かしがたい噺が多かった。こちらに咀嚼力さえあれば、すこぶる教訓に満ちてもいた。
 区役所や税務署に用事があったさいに、身なりを改めて出掛けるなんぞは愚の骨頂だという噺があった。手持ちから一番粗末な服を選んで、なるべく見すぼらしいなりで出向くべきだというのである。
 「解んないわぁ、お金もないしぃ、ってオロオロして見せんのよぉ。書類なんか向うで全部、書いてくれるわよぉ」だそうである。
 後年、出張に出たさいの営業トークで、ふいに思い出しては、いく度か活用させていただいたものだ。

 つい先だって、ふいに思い出して銀行に立寄った。とある目的のためにかつて開設した口座が、用済みとなって幽霊口座化していた。実害もないが、銀行にもご迷惑だろうから、ついでのおりにでも解約せねばとかねてより思いつつ、鞄に入れっぱなしだった。つねならば池袋支店にて手続きする。が、その日たまたま江古田に所用あって、しかも定刻まで小一時間の間があった。さいわい同じ銀行の江古田支店がある。
 そしてここが重要なのだが、おりしもその日の用件はごくごく気を使う必要ないものだったので、普段着も普段着、観ようによっては十分に見すぼらしいなりをしていた。このさい懸案を済ませてしまおうと、足を踏み入れたのだった。

 今どきのことゆえ一階は ATM 機が居並ぶばかりで、対面カウンターは二階へ上れということのようだ。そこでもまた機械から、整理番号を発券するについて、用件だのなんだのといろいろ訊ねられた。
 演技ではなく本心で、えーッという顔をしていると、若いお嬢さんの行員さんが歩み寄ってきた。帳尻ゼロの通帳とキャッシュカードと、ネットバンキング用の証書とを差出して、幽霊口座は貴行さまにもご迷惑かと思い、解約したいと申し出た。少々お待ちくださいと、それらを取上げて奥へ入ってしまった。パソコンで口座内容を確認し、ご上司に相談でもなさったのだろうか。戻ってきて、
 「印鑑はお持ちですか?」
 「なん年も前、印鑑廃止の方向と伺いましたが、それは失礼しました」
 「暗証番号は?」
 目的を限定して開設した口座につき、私個人の暗証番号とは替えてあったので、咄嗟には思い出せず、口ごもってしまった。(後刻思い出したけれども。)
 「ご本人確認のものをなにか?」
 「運転免許証は所持しておりません。マイナンバーカードは交付を受けておりません。国民健康保険証や老人医療保険証は写真付きじゃないので、銀行さんではお認めにならんのでしょうね。ご確認なさったと存じますが、帳尻ゼロの通帳ですよ。カードと証書も揃っている。これではいけませんか?」
 「そういうご用件でしたら、ご来行前にご予約連絡をいただきませんと……」
 「えっ、普通預金口座の解約に予約が必要なので?」
 むろんこれらの会話のさなかに、お嬢さんは老人の見すぼらしいなりを上から下まで、いく度も値踏みしたのを、私は気づいていた。
 「池袋支店では、そんなこと云われたこともないですが」とまでは、いくら何でも口にしなかった。結局、解約はできなかった。

 いやはや村木さん、ご教訓を実行するにも、芸が必要ですわい。私はまだ未熟でした。