一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

色の冬至



 昨日に引続いて、ケヤキ樹の噺。

 わが町にも、通りすがりにふと足を停めることのあるケヤキがいく本かある。いずれも江古田浅間神社の大ケヤキには、貫禄の点で一歩譲らざるをえぬが、それぞれの風情を見せている。まず駅南口からほどなくの公園には、中央にすっくと立つ姿があまりに見事て、印象に残る一本がある。周囲に植込みも遊具もなく、文字どおりの孤影だ。
 この樹を眺める絶景ポイントは駅構内にある。高架式の改札口から入ったところが、ロビーのごときやや広い曖昧(多目的)空間となっている。客はそこで上り線ホームと下り線ホームとに振分けられる。双方への降下エレベーターが口を開けている。男女および多目的トイレの入口もある。片隅には、緊急困惑者用のレンタル雨傘のサービスボックスが設置されてある。以前そこには、三つ口に分類されたゴミ箱が設置されてあった。駅構内にゴミ箱はめっきり減った。すくなくとも容易に見えるところからは姿を消した。
 改札口からは正面の、上り下りの乗車客を左右に分ける中央には大きなガラス窓が切ってあり、線路軌道と左右ホームの西側半分がつぶさに観おろせる。西から接近する上り電車は股間を抜けて行くようだし、西へ去る下り電車は股間から出て行くかのようだ。
 その大窓からは百二十度以上のパノラマで街並みが見晴らせる。左手の先には、公園のケヤキが、こんなに近かったかと改めて驚かされるほどに望める。地表面こそ手前の建物に遮られてはいるものの、樹形のほぼ全容が見える。日ごろは根元から視あげて一方的に話しかけるほかないケヤキと、マンツーマンで対話する想いが味わえる。まさにベストポイントだ。

 駅の東側の、線路を跨ぐ山手通り陸橋の先にも、小さな公園がある。陸橋建設のさいに既存道路との関係から図らずも生じてしまった三角空地を活用したと、ありありと想像できるような公園だ。そこにもケヤキ樹が立っている。ただし周辺にあれこれが詰合されされてある配置だから、すっくと立つ孤影というわけにはゆかない。
 だがこの樹には、車の往来が昼夜つねなき幹線道路と住宅街とを画然と区別すべく、片時も休まず必死で立ち続けている樹木という印象があって、これはこれで感心させられる。

 わが近所のフラワー公園のケヤキも、樹形においては見事なものだ。強風に吹かれる季節に、髪ふり乱す感じで枝をいっせいに一方へ吹き寄せている姿なんぞは、息を呑むほどの雄姿だ。が、周囲には低木・灌木類の植栽が按配されてある。子どもたち用の遊具もすぐ足元に設置されてある。木陰のベンチや砂場周辺は、子どもらを視守るお母さんがたの懇親会場である。つまりこの樹は、つねに主役であるわけではなく、脇役だったり背景だったりもするのだ。
 この季節は、すぐ隣の柑橘樹がいっせいに実を大きくするので、その色艶を鮮明に見せるための引立て役に回る。どうです、この実たちを観てやってくださいと、庇いながら披露しているかのようだ。


 フラワー公園は名のとおり、四季を通じて利用者や通行者に花色を提供している。往来に面した花壇の植替え・模様替えも頻繁である。
 この時期にだって、花色を誇る園芸品種の草花類もありはするだろうが、寒風に吹き惑わされる可憐な花ばなの姿は、観るものをかえって寒ざむしい想いへといざないかねない。それならばいっそのこと、というわけでこの時期の一発芸役者、葉牡丹が登場した。草花類よりは逞しく、姿も安定している。色彩だって十分に多彩だ。
 だがこの役者、今は謙虚そうな顔つきでも、性根はとんでもなく逞しい奴で、春ともなればずんずん背丈を伸ばして、これが寒い時期を彩ってくれたアノ葉牡丹かと呆れるほどに、丈夫な茎を伸ばしてくる。植物としてはご同慶のいたりであっても、観賞用園芸植物としてはとんでもなく愚連隊的だったりする。
 「ととさまの名は、阿波のじゅうろべえ~」と観客の涙を絞り出した名子役が、長じて定九郎を演じるようなもんだ。

 そう云えば、劇場へ足が向くことがなくなった。現代劇も能楽堂歌舞伎座もである。今年の春、奈良岡朋子さんが亡くなられて最後の灯が消えたように、観劇への足場が消滅した。いや、能楽堂歌舞伎座にはかすかに未練があるけれども、財布の事情ということもある。行き始めると続けざまに通い続けずにはいられなくなる、わが気性の弱点を承知しているがゆえでもある。
 もはや文化を有料で享受したり消費したりする気がない。いや、半ボケ老人には、シェイクスピアブレヒト奈良岡朋子も、ケヤキも葉牡丹も、等しく文化だ。