一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ガラス瓶


 週に一度の資源ゴミ回収を思い出せば一目瞭然だが、ガラス瓶というものに接する機会がほんとうに少なくなった。

 缶珈琲をよく飲む。スーパーでディスカウント品をまとめ仕入れして、冷蔵庫に切らさぬようにしてある。外出中やお湯屋さんからの帰り道やコインランドリーの待ち時間などに、急に飲みたくなって自販機で買うこともある。昨今は自販機の脇に空缶専用の廃棄ボックスが設置されてない自販機が増えた。いたずら廃棄に各メイカーとも業を煮やしたのだろうか。いきおい空缶を自宅に持ち帰る羽目となる。

 野菜中心の献立で暮らしているといっても、動物性タンパク質を拒否しているわけではないから、少量づつは摂るよう心がけている。トンカツもカラアゲも作らなくなったが、ハム・ソーセージを使い、玉子を使い、牛乳もチーズも使う。つまり農場・牧場から挙った食品は毎日摂取している。
 切らしがちになりやすいのは魚介類だ。魚を煮たり焼いたりは、あまりしなくなった。貝類の出汁で味噌汁や吸物ということもめったにしなくなった。これではならじと、イワシ・サバ・ツナの缶詰を冷蔵庫に常備して、少量づつでもなにかの形で食卓に載せるように心がけている。と、空缶が溜ってゆく。

 それに比べて、瓶詰め食品の世話になる機会はほとんどなくなった。私だけの個別例だろうか。我ながら卑しい性格とは承知しつつも、早朝散歩の道すがらにご町内いくつかの箇所で、回収コンテナを覗いて視たことがある。飲食店さんなどのお仕事がらの場合を除けば、どちらさまでも多いのはペットボトルで、次に缶で、ガラス瓶は少ない。
 製造コストの問題、重量の問題、割れたら危険で処置に困るなど、いくつもの問題点から、食料品からも家庭用薬品・雑貨類からも、ガラス瓶が姿を消していったのだろう。

 そんなところへ、英文学者の大島一彦さんから、ご郷里茨城県にある蔵元の銘酒をご恵贈いただいた。わずかに搾り粕を残して霧が掛ったような薄にごりで、まことに口当りの好い逸品だ。つまり飲み過ぎとなりやすい危険な酒である。
 清廉な愛妻家で生真面目一方の教授は私より二歳年長だが、なぜか正反対の私と馬が合い、お眼をかけてくださった。酒飲みの文学好きという以外に、二人に共通点はなかった。ある年、教授が英文学科から出向するかたちで文芸学科の主任教授を務めることに内定した。文芸学科となれば、英文学科とは学生の色合いを異にする。外国語辞書なんぞ引いたこともない不良学生がウジャウジャいる。始末の悪いことに、さような砂礫のなかに、妙な才能をきらめかせる厄介者も混じる。無視してしまえば造作ないようなもんだが、真面目に対処しようとすればけっこう骨が折れる。
 大島さんは誠実に対処なさろうとするご気性だった。思案された末に、さぞや冒険なさったのだろう。零細出版社社員にして二流の埋草・雑文ライターに過ぎなかった、教職なんぞには一日も就いたことのない私を、講師としてご採用くださったのだった。毒をもって毒をみたいなもんで、不良学生の話し相手には不良教員も必要だとの、バランス感覚ではなかったろうか。
 一年経って、出席も取らぬのに新米講師の大教室が満杯だったという異様事態が、数値からも学生の出口調査からも判明したさいに、もっとも胸を撫でおろしたのは大島さんだったろう。今から二十五年くらい前のことだ。

 温厚にして、腹を立てたことなど皆無と見える教授だが、学問においても文学においても、ことこの件に関してはとなると、めっぽう頑固な人だ。酒となれば、初搾りがガラスの一升瓶にて届く。拙宅の小型冷蔵庫には収納できかねる寸法だ。これが嬉しい。

 あと数か月もすれば、定年退職してから丸三年となる。ありがたいことに、年にほんの数回だがお召しがあって、大学へ出かけてゆく。時代遅れのピント外れゆえ、ろくなお手伝いもできかねる。選んだり、思い出したり、喋ったりするご用命だ。
 そんな用向きで数日前にも、すっかり顔ぶれの変った文芸学科にお邪魔した。控室で助手君が淹れてくださった茶をご馳走になっていると、今まさにお仕事盛りの准教授がやって来られて、先日のお礼とかおっしゃってお土産をくださった。なんでも彼のお調べごとに役立つデータを、喋ったか提供したかというひと幕があったらしい。当方はとんと記憶していない。だがせっかくご用意くださったお心遣いを固辞するのも無粋かと判断し、ありがたく頂戴した。

 帰宅して開封してみると、「餡子のある暮し」という栞が出てきて、小倉餡と抹茶餡のペースト詰合せだった。期間限定の稀少製品で、TORAYA の謹製商品だという。パンに塗っても、アイスクリームにかけても、ヨーグルトに混ぜても美味いそうだ。私ごときには視たこともないどころか思いつきもしない品物で、だいいち私には「虎屋」と「TORAYA」とがどう違うのか同じなのかも判らない。
 老化して酒量はめっきり減ったが、甘党のほうは衰えぬと口にも出し、ブログにも書いてきたので、お気遣いくださったものだろう。ありがたく頂戴することとする。
 外国人をして餡子に親しんでもらうための工夫だろうか、ローマ字ばかりのパッケージとラベルとにしげしげと視入った。TORAYA についてはなにも知らない。だが今どきガラス瓶にたっぷり詰ったこの高級品的感触は、紛れもなく虎屋の味わいである。