一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

初声



 ついに息する人に声を掛けた。本年初声だ。

 寝そびれたので、いっそのこととばかりに外出した。夜半の小雨は上っているが、曇り空で、アスファルトはあちこち濡れている。神社へ向う。もう初詣の人出もあるまい。そう思うのは私の常識足らずで、朝から参拝客があるものなのだろうか。
 初詣の行列はなかった。が、境内のあちらとこちらとに、十人程度の集団がたむろしている。男はダークスーツにネクタイ。女もキャリアウーマンスーツ。いずれも正装だ。それらを縫うように進んでの独り参拝は、少々きまりが悪い。
 無関心を装って、しばらく眺めた。どうやら定刻を待って一同拝殿に上り、宮司さんの祝詞を聴き、古式どおりのお祓いを受ける予約が通っているらしい。ふたつの集団は、順番を待つ別個の集団らしい。
 事務所だろうか、それともご商売だろうか。お仕事始めに全員でお清めを受けるのを年中行事となさるかたがたがあるようだ。珍しい光景を眼にした気になった。

 考え直した。たんなる私の無知かもしれない。お仕事始めに全員正装にてうち揃い、地元の氏神さまからお祓いを受けるのは、ごく自然だろう。さぞや清々しい気分となれるにちがいない。そういう職場集団が今の時代にもあることは、ゆかしく好ましいではないか。それを珍しい光景と感じる私こそ、汚れ堕落したバチ当りではないだろうか。
 待つあいだは神妙に言葉少なだった集団も、晴ればれとした面持ちで談笑しながら、大鳥居をくぐって出て行く。儀式に要する時間はさほど長くもないと見え、私が境内をうろうろしているあいだに、ふたつめの集団も帰っていった。

 その間私はと申せば、さすがプロの注連飾りは貫禄が違うもんだと中鳥居を観あげたり、一株の大公孫樹からこうもたくさんの葉が降るものかと、黄金色に散り敷いた絨毯の上を歩いていたりした。シマッタ、落果銀杏を靴底で踏みつぶし過ぎたと気づいたときはすでに遅かった。悪臭強烈な靴底を敷石に擦りつけるように擦り足で参道を往復した。
 そんな私を怪訝そうに眺めながら、次の集団が大鳥居をくぐってきた。お爺ちゃんお婆ちゃん、お父さんお母さん、叔父さん叔母さんそれに孫たちと、一見してご家族一同と判る集団だ。どうやらお祓いは時間予約制と見える。ご家族はまっすぐ中鳥居へとは進まず、大鳥居から入った外宮参道にて、勢揃いの記念撮影にしばらく興じていた。

 ロッテリアに寄る気になった。
 「ホット珈琲とチーズバーガーください」
 「チーズバーガーはどちらに? レギュラーと絶品と」
 「あ、絶品のほうで」
 今年初めて、人と会話した。二階へ揚って、北向き窓際のカウンター席に腰掛けた。店の入口は南向きに開いて駅に面しているが、二階北側窓は神社大鳥居に面している。席にもよるが、参道に入る人も参道から出る人も、つぶさに観察できる。
 やはり時間予約制らしい。ひと集団が入ってゆくと、ややあって前の集団が出てくる。正確に回転している。素朴で伝統的な、信心深い職場集団や家族集団が、わが町にはこれほどおいでだったのか。改めて想うに、私はわが町を、どれだけ知っているというのだろうか。

 親に連れられてこの町へ移ってきて、今年で七十年目に入る。だが地元の裏道抜け穴から垣根の破れ目や猛犬注意まで、事細かに把握していたのは、棒っきれ振回して半ズボンのポケットをビー玉でジャラジャラいわせていた時期までだ。中学から私立学校へ電車通学した。高校大学、フリーター会社員、その間つねに悪さに気を吐いたのは外地にてであって、わが町へは眠りに帰るだけだった。
 五十歳で看病が始まり、五十五歳でついに会社員を辞めて在宅介護と看病中心の暮しとなって、ふたたびわが町の人びとと仕組とが近しく切実なものとなった。だから家事生活といっても、たかだか二十五年のキャリアに過ぎない。そんなもんで、町のなにが解るものか。

 検索すると、わが町を散策したユーチューブ動画がじつにたくさん出てくる。池袋に近く、よろづにアクセスよろしいわりには、いくつもの小商店街が元気で、全体に庶民人情を保持した暮しやすい街として、ごくごく一部のかたのお気に召しているらしい。
 祭礼を、商店街を、飲食店を、名物オジサン有名オバチャンを、そして道行く人々を映し出した動画を、私は眼に着くかぎり視聴してみた。個人商店の経営者がたの多くは、いくらなんでも存じあげている。が、買物したり道を急いだりなさって通りすがる顔がおには、めったに存じ寄りがない。つまりこの町を歩いておられるかたのほとんどを、私は知らないのだ。わが町に伝統的かつ信心深い職場・家族がまだこんなにおられるかなんぞと、よくもまあ生意気が云えたもんである。

 心がけ次第で、馴染みのお顔は増えるだろうか。残念ながらそうは思えない。年々新住民は増えてゆく。新世代も育ってくる。ビー玉仲間・ベイゴマ仲間は次つぎ死んでゆく。
 ロッテリアからの帰途、サミットストアにて、梅干しとヤマザキの肉まん・あんまん四個袋とを買う。
 「お願いしまーす。ポイントカード、使ってませーん」(アッ、二人目だ。)
 ビッグエーにて、缶珈琲と牛乳パックと、ウィンナソーセージお徳用袋とマルちゃん正麺(醤油)とを買う。
 「お願いしまーす。現金でーす。それから整理台下の空ダンボール、今日もひとつ、いただいて帰りまーす」(三人目だ。)
 新年初声のお相手は、三人だった。