一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

溯る

『溯行』第138号

 長野市を本拠地とする長寿同人雑誌である。今も刊行されている。私も若き日には、勉強させていただいた、

 創刊者は立岡章平さんで、長野ペンクラブに所属する信州文界の雄のお一人だった。より自由に書きたいと袂を分つように『溯行』を創刊なさった。ペンクラブ時代の論考を中心として編まれた評論集『欲望と情熱の発見』、『溯行』に連載された『古代雑記』、その他の雑誌に寄稿された論考を編んだ『『つきかげ』論』と、三冊の評論集が残る。
 惜しくも四十歳代で他界された。二十歳代だった私の眼からは大人の風格と見えていたが、今想い返せば無念な夭折である。

 夫人の立岡和子さんが『溯行』を引継がれた。フォークソングやニューミュージックの野外ライブまで追いかけてレポートしたり、独自のミュージシャン評価を展開したりの連載が注目された。後には夏目漱石を中心に、文学論をも連載された。音楽関連・文学関連に分けて、それぞれの評論集がまとまっている。
 私は章平さんから影響を受け、和子さんの時代のある期間に寄稿者のひとりだった。なにをどう書いてもよいという自由さが信条の雑誌だから、とりとめのない断片や、後年読返して恥でしかない思い切った仮説などを書かせていただいた。なかに少しは内容あるものも混じっていて、わが文集刊行のさいには数本採らせていただいた。

 和子さんはご健在だが、お齢相応に弱られた。今は娘の立岡祐子さんが引継がれて、刊行者となっている。かつていずれも信州文界の雄だった創刊同人の多くが他界され、もしくは高齢化した。顔ぶれは順次変ってきた。が、筆者陣それぞれの暮しや関心に沿った、いわば身の丈に合ったエッセイや報告文が並ぶ。自由の天地という理念は、いささかも揺らいではいない。

 ウクライナ戦争下を詠んだロシア人やウクライナ人の俳句を紹介くださる文章がある。昨今の寺院運営の内情を知らせてくださる文章がある。父上や祖父祖母との想い出を回想くださる文章がある。過去に関わった同人雑誌の想い出を語ってくださる文章がある。サッカーワールドカップに向けての熱い関心と期待とを述べられた文章がある。私が知らない噺ばかりだ。それでいてさように云われてみれば、素直な人間的反応として、あるていどは思い当る噺ばかりだ。
 身に沿った、板についたというのは、いいもんだなぁ。地に足がついたというのは、いいもんだなぁ、との想いがしきりと湧いた。