一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

いのち


 ラッキョウ入れの小鉢が割れた。昔流の験(げん)担ぎで申せば、数が増えた。

 左手の小盆には淹れたての珈琲が載っていた。なみなみと注いであった。右手で冷蔵庫の扉を開け、小鉢を戻そうとした。なにもかもを老化による意識散漫のせいにするのは卑怯だろう。粗相である。ラッキョウ粒が床にぶちまけられた。床のベタつきを拭う雑巾がけにはあんがい手間どった。思わぬ範囲にまで汁が飛んだとみえる。

 母の時代から台所にあった。色合といい絵柄といい、私が選ぶ意匠ではない。母はこれを臨機多目的に使っていた。
 錦松梅の器は捨ててはならないと教わった。他の頂戴物の容器なども、再利用に耐えるものはすべからく保存し、使う人だった。が、これは買ったものだったろう。ともあれ短く考えても、三十年間はわが台所にて働いた小鉢である。
 私はなにごとによらず、臨機多目的を嫌う質(たち)で、ラッキョウ専門の容器として継承した。同様に樽型の厚手小鉢を梅干し専用としている。頂戴物の水産加工品の容器、通称うに小鉢は複数あって、塩辛用、味噌漬け用、佃煮用となっている。
 ラッキョウ用の椿小鉢は、仏壇にてねんごろに供養してから、植木鉢の欠片などと一緒に、次の不燃危険ゴミ回収の日に出さねばならない。次回の墓詣りのさいには、母に報告事項ができた。そして今日から数日は、次のラッキョウ鉢をどれにするか、選定期間となる。まだ表舞台に登場したことのない、母からの継承品がいくつもある。今選べば、生涯最終のラッキョウ鉢となる公算が大きい。選定には慎重を要する。


 生来の指先不器用に加えて、老化による意識散漫だ。日ごろは気づかぬ速度ではあるが、ガラスや陶磁の品が身辺から徐々に減って、樹脂製品に換ってきている。塩壺は今も陶器の甕(かめ)だが、ふだん移動したり持上げたりする機会もないから、難を免れてある。砂糖壺のほうはもう何年も前から、頂戴物の樹脂容器に換っている。縁に溝が切ってあって、ねじ込み式の蓋がきっちり閉るので、湿気が来にくく重宝している。
 樹脂製品はどれも軽くて丈夫で、助かりはするが、疵が付きやすく、長く使ううちにはどうしても艶を喪って、曇ってくる。熱に対しても心配だ。使い込むことで味が出てくるだの、風情が増すだのということは考えられない。味気ない。

 かといって、これから什器を買うということは、ほとんど考えられない。使い込んで景色が好くなるころには、私は生涯を了えるだろう。器たちに気の毒である。
 似たことは金属製品や刃物についても云える。贅沢申せば、炒めのみならず煮炊きもできてしまう小型の深底フライパンが欲しい。剪定鋏も一丁欲しい。けれども使い勝手がよろしくなってきたころには……と考えると、商品売り場でいつも手が停まる。だいいち不自由ながらもなんとか責めを果してくれている、今の道具たちに顔向けできない。これはこれで十分なのだ。
 母からの継承道具はもちろんありがたくはあるが、自分で選んだ包丁三本セットや中華鍋とお玉と油切りのセットその他は、なろうことなら棺に収めてもらって、次まで持ってゆきたいものだと思っている。


 秋には、のっぽで頭でっかちな花を咲かせてくれる予定の彼岸花たちの、今の姿だ。
 命あるものは育つ。そして命あるものは、壊れてゆく。