一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

とある上機嫌



 シナモントーストと珈琲。珈琲館に立寄ったさいの、気に入りメニューだ。

 原稿を編集部に届けた。たいそうな原稿じゃない。二枚半。雑誌仕上りで一ページの記事だ。先ごろ意欲的な候補作をいく篇か読ませていただき、いずれが受賞作かといった選考のお手伝いを拝命し、その感想つまり選評の原稿である。
 現在では、データをメールに添付するかたちで送稿するのが当り前となった。私もメール送稿する。同時に紙にプリントアウトしたものを、編集部にお届けすることにしている。お若い編集部員からは、メンドクセエ爺さんだと思われているかもしれない。まさかの行違いをも防ぐための「念には念」と言いわけしている。

 産経新聞で書評を書かせてもらっていた時分には、大手町の本社へ参上して「文化部 ○○様 原稿在中」と表書きした封筒を受付けの女性に託していた。図書新聞で囲み記事の月一連載を書かせてもらっていた時分には、月末近くなると水道橋の編集部へ顔出しして、翌月分を手渡していた。一年間、十二回参上したことになる。地方新聞に週一の読書案内コラムを連載させてもらっていた時分には、三回分か四回分をまとめて、銀座の通信社まで届け、編集長から珈琲をご馳走になっていた。満六年にわたり、二九〇回連載したから、ずいぶん銀座の珈琲を飲ませてもらった勘定になる。
 編集長や編集部員との交際という側面もあるが、吹けば飛ぶような埋草や断片記事を買ってもらう二流ライターの仁義とも思っていた。小さな原稿がなにかに取り紛れられても困るとの想いもあった。

 実際に原稿紛失の憂き目に遭ったことだってある。天下に聞える大出版社で、文庫本の末尾に付ける解説原稿が、なにかに紛れて見当らないと、若い編集者から血相変えたような電話を受けた。十五枚ていどの原稿だ。自分が清書させてもらうから、下書きは残ってないかとのお訊ねだった。そんなものはない。乱雑なメモをいく枚もの用紙に順不同に書き散らして、それらをあちこちひっくり返しながら一気に仕上げてしまうのが、私のやりかただ。
 ともかくそっちへ行くからと電話を切り、幸いにも屑籠に残っていたメモ用紙いく枚かの皺を延ばしてみたものの、全体の半分弱しかない。編集部へ赴いて会ってみると、電話を切った後もう一度念入りに探してみたが、やはり原稿は出てこないと云う。
 だいたいからして文庫本の解説などというものは、大切なのが本編作品で次が巻末広告で、さらなる余白を埋めるためのものだ。台割り都合で長くも短くも書けなければ、一人前ではない。ましてや有名評論家ででもあればいざ知らず、私ごとき書き屋へ回ってくる仕事は、印刷入稿予定日まで時間的余裕などないのが普通だ。
 「場所をお借りできますか」
 それまで校正などは、受付けロビーの隅っこに並ぶ長椅子のどこかで済ませるのがつねだった。この時ばかりは、応接広間の隅の席へ案内された。柴田錬三郎先生がお気に入りの席です、なんそと説明された。なにもこんな時に……。この編集者は本当に馬鹿だ、と思った。
 四割がた残っていたメモと、執筆時の記憶とを頼りに、二時間半ほどで原稿を復元した。
 「こんなことが、できちゃうのかァ」
 編集者は、最大限の感謝の言葉を連ねた。編集長には内密にと、口止めもされた。私も相当なお人好しだ。原稿を買ってくれる相手に貸しを作っておくのも悪くはあるまいなどと考えていたのだ。だが、ケチが付いたと思われたのだろうか、たんにバツが悪かったのだろうか、その編集者経由では二度と原稿の注文が来なかった。

 習い性と成る。孫のような齢の編集部員にも、二枚半の原稿を手渡すのである。
 確かに手渡したあとの珈琲は美味い。シナモントーストも美味い。ただし添えられたレタスサラダに載ったコーン粒を、いかなる順序でいかようにすれば、こぼさず合理的に食べられるものか、いまだに定見を得ない。自分流が確立できていない。