一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

大寒



 来年の今月今夜、再来年の今月今夜、宮さん、僕はきっとこの月を……

 濡れる心配ないほどの小ぶりながら、冷たい雨の日曜日だ。昨日から大寒に入った。予定どおりコインランドリーへ行かねばと思いながらも、ついつい動きが鈍って、昨年一昨年の同日の日記をクリックしてしまい、呆れた。同じ話題を今書いたら、そっくり同じ文章になるだろうことが書いてある。

 昨年の今日、〆切原稿を編集部に渡したらしい。見出しは「正統か因習か」で、肩の荷をおろした私が、珈琲館で一服した噺だ。珈琲とシナモントーストという注文品まで、今と同じだ。カップの耳を左手に向けて客に出すか、それとも右手に向けて出すか。またカップになみなみ注ぐか、八分目に注ぐかなどと書いてある。
 イギリスから到来した喫茶習慣が日本の茶道作法と融合して、とある新習慣が戦前日本に形成された。ところがアメリカ人はイギリス人とはまた違って……というような噺だ。私が受けた初等教育と狭い見聞とのみを根拠とする、他愛もない話題だ。
 久しぶりの外出だったと見え、思い立って古本屋を素見したものの、疫病禍による運動不足がてきめんにたたって草臥れ果ててしまい、ようよう馴染みの居酒屋へと辿り着く。愛嬌たっぷりのお運びお嬢さんがカウンターに置いてくれた〆鯖の角皿が、逆向きだった。皿や小鉢の正面というものを、店長から教わってなかったと見える。どっちでもよろしいようなもんだが、この場合に限っては、板場が客に見せたかった方向というものがあろうから、気の毒だ。
 さてお嬢さんにそっと告げるべきだろうか。それとも恥をかかせてはならないから、あとで店長に耳打ちしておこうか。いやいや余計なお節介、大きなお世話というものだ。口うるさいジジイを演じてみても詰らない……なんぞと迷う次第が書いてあった。

 一昨年の今日は、新人賞の授与式だったようだ。今年度については三日ほど前に済ませたが、二年前の同じ行事だ。「いくらか」という意味不明の見出しが立ててある。式終了後に別室へ引揚げて、受賞青年と最年長選考委員との対談を収録した。文字起しして受賞作発表号の賑やかし記事とするためだ。
 有望な書き手との対談を了えて、小説の着想のしかたが時代相を帯びて多彩になっただの、カギカッコに入った「近代文学」が古典芸能の一分野となっただの、今と同じ感想が書かれてある。老人には進歩がないことに、今さらながら愕然とせざるをえない。
 対談の座を和ませる一助にと茶菓子を持参したのだったが、有名菓子舗の銘菓などこの場合はかえって堅苦しいと考え、頂戴物の空ボール箱にビッグエーで調達した駄菓子数種類を詰合せた。会場設営の助手君に託すとえらく恐縮の面持ちだったから、
 「ボロは着てても心の錦」
 と申し添えた。箱だけ立派という意味でもあるが、むさ苦しいなりをしたジジイのささやかな手土産との意味でもあり、つつましやかな文学雑誌のささやかな新人賞ではあるが有望な新人たちとの含意だった。
 当然ながら助手君に伝わるはずもなく、「いえいえ」と返されてしまったのだった。

 さて二年経っての大寒の日曜。次の余震あればわが命尽きるかもしれぬと怯え凍える同胞がある。もはや戦禍から逃れる途は尽きたのではと、失意の只中に身を置く人びとも世界にはある。
 私はと申せば、カレーとデミグラス味だけでは飽きるから、ホワイトソースも試してみたなんぞと考えており、どうやら雨がやんだ模様だから、コインランドリーへ出かけねばなんぞと考えている。