一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

アップルパイ


    「アップルデニッシュ」行列のできる地元の名店ベーカリー謹製。

 阪急京都線の終点「河原町」で降りると、まず四条通りを西へ歩いて、ジュンク(淳久)堂書店に顔出しした。相性の好い書店で、わりに商売ができた。あとに控える難関を前に、気分を高揚させておかねばならない。
 もともと神戸を本拠地とする書店で、メインアーケードの三宮センター街にある本店も、大規模ビジネスビルの階上にある支店も、私にとっては相性が好かった。京都に支店進出したとのことで営業に出向いてみたら、そこでも上手くいった。社風だか社員教育の方針だかが、私と反りがあったものだろう。

 四条河原町交差点まで戻って、今度は河原町筋を北上する。美術出版社の京都書院が小売店を出していた。美術書や伝統文化や伝統芸能の高級書籍を扱う専門店で、私なんぞはお門違いの玄関払いだった。
 横断歩道を渡った進行右手に、丸善京都店がある。苦手な書店だった。売場の女店員さんまでがたいそう行儀よろしく、冗談が通じなかった。へりくだって笑いを誘おうとすると、本当に下品な馬鹿だと受取られた。噺のついでを装ってキャラメルかグミを渡そうとしても、固辞された。ジュンク堂書店なら、変なオジサンねえという顔で一緒に笑ってくれるのに。
 河原町筋左側へと横断歩道を戻り、さらに北上すると駸々堂書店本店だ。地元京都を本拠地とする大書店である。聴いてはいたものの、京都で商談するのは本当にむずかしいと、東京から赴いた営業担当が思い知らされる店である。私も上手くいった試しのないままに、営業に歩かぬ齢になってしまった。

 四条河原町交差点まで戻る途中の、京都書院の並びあたりに、個人営業のこぢんまりした喫茶店があった。毎回レモンティーにアップルパイを注文した。
 京都での売上げはいつも振るわなかった。名古屋も大阪も神戸も、そこそこやれた。岡山と広島はむしろ得意コースだった。福岡・佐賀・長崎でも不自由はしなかった。が、京都だけは駄目だった。河原町筋の小さな喫茶店は店名すら記憶していないが、そこのアップルパイの味は今も、なんとなく憶えている。
 大震災からの復興で、三宮周辺は様変りしてしまったという。ジュンク堂京都店も駸々堂書店も閉店したという。もし今後行く機会があったところで、神戸も京都も新規に歩き直しとなるにちがいない。


        「大きなデニッシュ〈りんご〉」第一パン謹製。

 アップルパイをケーキとは称ばないのだろうが、好きな洋菓子はなんだと訊かれれば、応えはアップルパイだ。とはいっても、食べ較べて歩くほどのマニアではない。材料や製造工程についての蘊蓄にも興味はない。
 目下のところ、気に入っている店は一軒ある。処は台東区谷中、世に云う谷根千である。かといって頻繁にかよい詰めているわけではない。なにせ足さねばならぬ用件が三つ以上溜らぬうちは、池袋まですら出かけぬ男だ。JR.さらには地下鉄にまで乗換えて、最寄りの千駄木駅までなど、めったに行くものではない。
 ベーカリーやスーパーで菓子パンとして売られているアップルデニッシュで、ふだんは焼きりんごを愉しんでいる。分相応だと思っている。

 テレビ草創期には NHK『パパは何でも知っている』、民放『名犬ラッシー』ほか、アメリカ制作のホームコメディーがいくつも輸入され、放送された。戦後復興に血まなこの貧しき日本人たちよ、せいぜいアメリカ式を手本にして、明るく前向きな家庭づくりを目指して今は我慢するのだゾ、というドラマだった。GHQ による日本人宣撫工作の一環だったろう。
 少年が腹を空かせて学校から帰ってくる。
 「おかえり、おやつのパイが焼けてるからね、冷蔵庫にミルクがあるわよ」
 母親のやさしい言葉に、少年は台所へと走る。ほとんどの日本人は、白くて丈夫そうな、しかもあんなに馬鹿デカイ電気冷蔵庫を初めて視るのだった。そのうえアメリカの子どもたちは、自分で冷蔵庫の扉を開けて、勝手に牛乳をゴクゴク飲んでしまっても、叱られないんだと知って驚いた。それよりなにより、パイってなんなんだ。どんなものなのか。甘いんだろうか。美味いんだろうか。

 アップルパイだレモンパイだと実際に眼にしたのは、およそ五年後だった。ピザパイなんてもんを知るのは、それからさらに五年後のことだ。両親の悪戦苦闘時代につき、拙宅の暮し向きはおよそ楽とは申しがたかったが、かといって日本の平均水準から拙宅だけがはるかにずり落ちていたわけでもあるまい。すなわち大半の日本人が、さような程度だったのだ。子どもたちは煤けて埃っぽく、不潔で空腹だった。こんな当り前のことが、あんがいお若いかたがたに伝わらない。
 わが気に入りのアップルパイが、そりゃァあるさ。かといってアップルデニッシュに不満があるわけじゃない。