一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

文鎮



 用途不明。実効性不問。重量感、手応え、表情、愛嬌。それで充分じゃないか。

 パルコは開いてなかった。下調べ不足で出掛けた私が悪い。今でも館内に世界堂があるものとばかり、暢気に信じ込んでいたのだ。時代遅れも甚だしい。
 東武百貨店へ回る。伊東屋があるはずだ。小さなブースに「伊東屋」が収まるわけもない。目当ての品はなかった。
 西武百貨店のロフトへ回る。品揃えがちょいと筋違いと覚悟はしていたものの、やはり探し物には逢えなかった。
 エスカレーターで降りながら、筆だの紙だの書道用品が眼についたので、急遽途中下車した。たしか文房堂が入っていたはずだ。目星は製図用品に分類される品物だったが、図星を刺す品にはお眼にかかれなくとも、代替できる品には巡り逢えるかもしれないとの気が、咄嗟に起きたのだった。

 念頭にあった品とは似ても似つかぬものだったが、壁にへばり着いた奥行き浅い小さな棚に、いくつも陳列されてあった。狭い空間だが、おしなべて小型の品物ばかりだから、眼移りして選ぶのに迷うほどあった。
 長さ五センチほどの茄子を選んだ。子どもの掌にも載る、細長い鉄の塊である。書や俳画を愉しむ人用の文鎮らしい。色も形も表面の表情も、おおいに気に入った。目指すはもう一個だ。同じもの二個でも悪くはないが、できることなら変化をつけたい。これ一個しかない、という感じを演出したくもある。


 カボチャがあった。左右は茄子より短いながら、高さも厚みもあるので、重さ(鉄量)は茄子よりもある。表面の仕上げが絶妙だ。野菜多しといってもカボチャだけがかもし出す鷹揚でユーモラスな感じが、見事に写し取られてある。これもおおいに気に入った。
 自分用にもなにか選んでみたかったが、とんだ無駄使いに了る危険もあるから、衝動買いはやめにして、茄子とカボチャだけを包んでもらった。

 脇に筆も墨も紙も置かなければ、これらがいかなる用途を果す道具なのか、多くの人には云い当てられまい。裏を返せば当方の見立て・工夫次第で、本来の用途以外の使いみちに供することも自由勝手というわけである。
 どのような役に立つものか判らない。値打も判らない。けれど掌に載せてみれば、形状からの想像を裏切ってずしりと重い。存在感がある。表情がある。愛嬌も可愛げもある。それが文学というものだ。派手じゃなくたって、見映えがしなくたって、いいじゃないか。

 近日中に、新たな門出に発つ若者二人を祝賀する機会がある。今さら教師面する柄でもないのは承知だが、それでも記念品に付けてどうにかして伝えたい言葉が、私にはある。
 世の中のことも、今の若者を取巻く労働環境も、私にはさっぱり解らぬことだらけになったが、もしも私の時代と共通する点が今も残ってあるならば、社会人として働くことも、いや人生そのものが、鉄の茄子やカボチャのようなものではないのだろうか。
 久しぶりに乗った電車から降りて駅前に立つと、驚くほどの強風が吹きつけてきた。そう云えば昨夜のラジオで気象予報官が「明日は東京に春一番が吹くかもしれません」と云ってたっけと、思い出した。