一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ピザまん



 「肉まん派、それとも餡まん派?」
 「どっちでもねぇ。ピザまん
 「それな。鉄板だもんな」
 先週末のこと、居酒屋のカウンターに独りでいる私の背後から、二人の青年の声が聞えた。
 私にとっての中華まんは、肉まんと餡まんの二者択一でしかない。そういえばスーパーでもコンビニでも、ピザまんという商品をたびたび眼にしてはいた。
 のっけから余談だが、「中華まん」は死語だろうか。だとすれば「支那まん」はもっと死語だろう。私に近しい日本語が、またひとつ死んでゆく。

 今日もまた寒い。いつ降り出してもおかしくない空模様だ。散歩にも草むしり作業にも向かない。最低限の買物だけ済ませると、さっさと帰宅した。炬燵(温風機を足元に置いて膝掛け毛布で覆っただけのもの)に下半身を潜り込ませて、パソコンに向う。

 夜が更けて、空腹に気づいた。台所に移動して炊事にかかる。まず湯を沸して出汁作りだ。粥を炊きながら、小鉢・小皿の惣菜類を整える。粥鍋を火から降ろしたら、玉子を焼き、ウインナを炒める。カボチャを洗ってカットし、笊に揚げておく。そうこうするうちに、出汁が冷めてくれる。鍋の底に薄く砂糖を敷き、カットしたカボチャを隙間なく敷詰める。
 食事と洗いものの時間が、ちょうどカボチャの炊きあげ時間だ。


 食後のインスタント珈琲の時間は、じゃが芋と人参の下茹で時間と同時進行だ。私の片寄りガスレンジだと、じゃが芋は九分、人参は十分、ちなみにゴボウだと十一分である。
 昼間の買物では、前回と同じく刻み野菜を練り込んだ塩釜揚げを買うつもりでいたのだが、ビッグエーの棚では品切れだった。ならばわが定番のひとつである最安値の生食用細巻竹輪をとも思ったのだったが、いかにも美味そうな太めの焼竹輪が眼についてしまい、ついぜいたく心を起してしまった。

 いつものレシピで変り映えもしない調理法にて、煮物を仕立てる。煮えあがるまでの間に、昨日早朝に炊いたまま、丸一日半も炊飯器で保温したままに過してしまった白飯を、冷凍用小分けおにぎりに握り、ラップでくるむ。

 今回は九個取れた。長年 300 カップに二杯、つまり三合と少々を炊いてきたが、それだと小分けおにぎりが十二~三個も取れてしまう。丸まる二週間分だ。そんなに取れなくていい。カップを米びつに突っこむさいに少々加減して、ここ半年は大体八~九個に落着いている。

 カボチャと煮物とは、炊きあがったとはいえ、赤児泣いても蓋取るなの状態である。鍋をガス台に置いたまま、居間へと引返してしまってもかまわない。が、小分けおにぎりだけは、冷めるのを待って今日中に冷凍庫へ収めてしまいたい。しばらく待ってみることとする。
 「ラジオ深夜便」の午前三時からの枠で、今夜は作曲家としての宇崎竜童作品集だという。山口百恵横須賀ストーリー」なんぞ当り前過ぎるからどうでもいいとして、研ナオコ「愚図」、内藤やす子「想い出ボロボロ」、坂本冬美「蛍の提灯」、由紀さおり「う・ふ・ふ」と並ぶらしい。そこまで来るんなら、ちょいと聴いてみようかという気になった。

 始まりまであと三十分。終りまでは一時間半だ。煮物の鍋が冷めるにも頃合いの時間だ。ヨシッ、と肚を括った。
 気づけば、食事が済んでから三時間も経っている。すぐに就寝するのでなければ、珈琲をもう一杯、それになにか間食でも。
 さように頭が向いた瞬間、突如として雷に撃たれたように、実際に撃たれた経験はないのだが、衝撃的に思い出した。ピザまんがあるっ。居酒屋で青年たちの会話を背中に聴いた帰りに、ビッグエーで試しにひと袋買い求めて冷凍庫に放りこんだまま、ここなん日も忘れていたのを、今思い出したのだった。

 電子レンジで半解凍し、わざわざ蒸し器にかけて、丁寧に蒸したことは申すまでもない。味の評価については、今は措く。データが少な過ぎる。ただかの青年たちとは受取りかたが異なるかもしれない。ともあれ産まれて初めての、ピザまん体験であった。