一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

熱いがご馳走



 おだやかな陽射しが射している。陽だまりは温かい。空を仰ぎながら、ああビタミンD が生成されつつあるなあという気がする。風は強い。冷たく肌を刺す。二重マフラーとマスクとでガッチリ防寒しているから、暢気にビタミンD を感じてなんぞいられるだけのことだ。

 昨夜は寒かった。一昨夜も寒かった。昼間は小雨模様で、一日中気温が上らなかったから、なおのこと気が重くなる冷えこみだった。いったん春めいた陽気の日々を味わってしまっただけに、気の重さはひとしおだ。
 骨身に沁みる寒さなんぞと形容するが、躰の芯が凍えたり、骨までがきしり音をたてて寒がっていると実感するのは、北国だけに通用する形容だと、若いころは思っていた。北国で野外のしかも夜間の作業を強いられるかたや、冬に挑む山岳登山家がたや、南極越冬隊員さんたちや富士山レーダーの観測員さんたちだけが、感じられる寒さだと思っていた。東京で暢気に過す私なんぞに経験できる世界ではないと、本気で思っていたのである。
 老いた身にはことさら寒さが応える、なんてのも文学的形容に過ぎないとたかを括っていた。寒かった過去の記憶を辿れる身であり、そのうえ神経も鈍感になっているわけだから、忍耐し遣り過すことは容易なはずだ。ところが、あながちそうでもなさそうだと気づいたのは、ここ数年のことだ。冷えこみに遭遇すると気力が萎え、行動力が著しく削がれる。その場にただうずくまっているだけの男になってしまった気がする。

 「ふぅー、アッツイのが、なによりのご馳走だてば」
 映画やテレビドラマでいく度も聴いた、吹雪の中をやって来た男が、振舞われた白湯の湯呑を両掌で包みながら、必ず口にする台詞だ。
 そうだ。冷える夜は熱燗である。わが鶴首に七分目、ということはおよそ一合を、居酒屋では出てこないほどの熱燗にする。つねの惣菜から視つくろって並べる。酒の肴に合う合わぬは、このさい関係ない。一日の摂取食品の目処をここで達成する。ちびちびやるつもりだから、玉子だけはまだ作らずに置いた。


 文字どおり舐めるように飲んだはずだが、徳利が空になる。もう一本つけるとなると、これはもう一人前の飲酒である。どうしたもんか。
 かなり考えて、自重した。今宵は酒を飲むのではない。寒さ凌ぎの薬湯を口にしたまでである。ではこの身は十分に温まったか。そうとも云い切れない。ヨシッ、そうとなれば……。カレーうどんである。しかもここは大盛で、玉ねぎタップリめで。

 一日の摂取カロリー量の目処を超える。昼間が活動的であれば、さほど気にする必要もないが、なにせ寒さにうずくまって過した一日だ。おおいに反省する。
 むろん、珍しい反省ではない。