一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

斬られるまでは

徳川夢声(1894 - 1971)

 昭和二十年(1945)三月上旬の徳川夢声は、銀座金春と新宿松竹に出演していた。
 江戸能楽宗家の金春屋敷が幕末に麹町へ引越していった跡地は、明治以降も芸者衆が住んだりする粋な金春通り界隈として、名残を留めた。銀座通り七・八丁目と平行するひと筋西側(JR 側、皇居側)一帯である。劇場か演芸場があったものだろうか。私は知らない。
 新宿松竹は私の知る時代は松竹映画劇場で、その後新宿ピカデリーと称ばれるようになり、今もシネマモールとして存続する場所だろう。その場所にも劇場か演芸場があったものだろうか。
 今の寄席で申せば三月上席を、それぞれ昼夜二回出演するために、夢声は銀座と新宿とを忙しく往ったり来たりして過した。

 三月一日、夢声はいきなり休演している。体調も気分も、すこぶる悪かったのだ。
 前日夕刻、気の進まぬ約束だったが山田耕筰邸を訪ね、連れられて赤坂のヤミ待合へと場所を移した。現職警保局長だの前内務大臣だのといったお歴々との宴会である。警保局長による小唄だの、山田耕筰による「女ノ或ル場合ノ表情」だのという珍芸を観せられ、さらには政治家連中の談論に触れて、暗然たらざるをえなかった。
 だいたいが会場からして、とある名士が世話する女性にやらせている公然の秘密の店だ。料亭政治・待合政治の域を一歩も出ていない。しかも飛び交う談論たるや、耳を疑う空論ばかりだ。せめて庶民の耳に届かぬ情報のひとつでもと期待した夢声は、開いた口が塞がらぬほど失望させられた。
 結局は自分で身を護るほかないのだ、だれかがやってくれることなどありえないのだ。いら立たしいような、情ないような、なんとも形容しがたい砂を噛むような想いで、夢声は深夜に帰宅した。で、翌三月一日は休演した。

 二日からは勤勉に舞台を務めた。都電と省線とを乗り継ぎながら、銀座と新宿とをまめに往復した。途中では露天商で、切らしていたゴム紐を買った。劇場雑役の小母ちゃんからは、闇ルートで酒を手配してもらうことにした。信州の知人へ手ぶらでは頼みごとに参上できないからである。
 関西の舞台出演への依頼が舞込んでも、辞退せざるをえなかった。映画出演依頼も二週間の九州ロケが見込まれると聴いて、断らざるをえなかった。それもこれも、今この時に家族を置いて家を空けることなど、できぬ相談だったからだ。当面の最優先は末っ子である息子を、信州の知人の伝手を頼って疎開させることだ。事は重大だから手紙依頼だけではなく、一度信州へ赴いて、膝詰めで頼み込まねばならない。そのための闇ルートの一升瓶だ。

 三月九日は十八時に帰宅して、入浴後に九日ぶりで酒を口にした。配給の合成酒がひどく不味い。なんとか就寝したのだったが、飛び起きざるをえなかった。二十三時半、警報発令。翌午前三時、警報解除。翌日の大本営発表によれば、帝都上空に敵 B29 百三十機襲来。
 荻窪の陸橋から、都心方向を眺めた。火の手が強風に煽られて燃え盛っていた。炎か火の粉か、煙か埃か、入道雲のようなものが盛上る光景を眼にするのは、関東大震災以来だ。いつになく低空を飛ぶと見え、B29 はこれまでの三倍もの大きさだった。炎との補色関係か、美しく青光りしていた。

 悲惨な光景を記しながら、夢声は二度三度と「美しい」「美しく」と書いている。無頓着のあまりに不謹慎な用語選択をしたわけではない。眼に見えた光景を虚心に、的確に記したに過ぎない。業火の下で右往左往するいく万人もの人びとを思い遣りながら、みずからの心と申し合せるように呟く。
 「私は、自分が斬られるまで、痛がることは止めよう」
 呟きの正体を、真意を掴み取ることは、今日そう容易ではない。

 翌日から、夢声はじつによく歩いている。演芸場は休演か。事務所は無事か。どのビルは焼け落ち、どのビルは残っていると、いちいち書き留めている。眼の色を変えながらも好奇心満々で都大路を歩き回った、鴨長明さながらだ。
 この身が斬られるときまでは痛がるまいとの決断と、「痛い」以外に形容しようもない次つぎ現れる光景との、果てしもなき格闘である。
 原爆投下まで、敗戦詔勅まで、あと五か月。東京にはまだ、細ぼそと灯を消さずにいた演芸場があった。そこには暢気な話題で観客を笑わせようとする活弁士、兼漫談家、兼俳優、兼随筆家、兼俳人があった。

 「戦時下の庶民は、時局に黙って身を処した」という小林秀雄の言葉を、具体的に掴もうとすれば、例えて申せばさようなことだ。黙って身を処するとは、ひたすら我慢することではない。ましてや唯々諾々として盲従することでは、さらにない。
 身を処することにかんしては、自分は誤ったのではないか、不十分だったのではないかと、この齢になって想う。