一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

対峙する



 世界の小澤死す。小澤征爾の訃報がニュースに報じられたとき、忘れられぬご命日になったなと感じた。母の命日と同日だからだ。またその前日の「ラジオ深夜便」で、ご尊兄小沢俊夫さんへのインタビュー放送を聴いたばかりだったからだ。
 もっともそのインタビューは、「アーカイブ放送」とかいうもので、以前に放送した音源の再放送ではあったが。
 グリム童話のご研究で著名なドイツ文学者にして、筑波大学の名誉教授だ。教授職ご退官後は、もっぱら日本の昔話の調査採集・読み聴かせの活動に従事してこられた。ご立派な晩年仕事もあるものだと感じ入り、その分野に無知だった自分の人名辞典にまた一人新たな偉人が加わったと思った矢先の、「世界の小澤」訃報だった。

 小澤征爾という人を知ったのは、遅かった。わが家に音楽的環境はなく、素養もなかったのだ。萩元晴彦のドキュメンタリー「現代の主役・小澤征爾“第九”を振る」で知った。それも TBS の初出放送にてではなく、新宿「蠍座」で催されたテレビセミナーにおいてだ。天空の魔物に憑かれたかのような、髪振乱しての熱狂的な指揮ぶりが、ブラウン管ではなく試写用スクリーンに大映しされて、圧倒された。私は高校生だった。

 後年のインタビューに応じた小澤征爾に、こんな言葉があった。音大学生時分の逸話だ。
 「ある時、先輩の(山本)直純さんがつかつかと寄ってきてね。オイ小澤、お前は頂点をやれ。俺は底辺をやるっ、て云うんだね。意味が解らなかったよ。今は解る。あの先輩には、いったいなにが見えてたんだろうねえ」
 少しは大人になっていた私は、凄い人たちもあったもんだと、感服した。しかし自分がどう感服しているのかまでは、解らなかった。今は解る。自分の才能が、森羅万象のうちのなにと、どういうものと対峙しているかという視きわめを、若くしてつけられる人が、この世にはあるということだ。


 文化大革命後の中国で、小澤征爾が北京のオーケストラを指導した映像があった。これもドキュメンタリー番組だったと思う。
 吊し上げられたのは地主階級や有閑富裕層ばかりではない。芸術家・文人工芸家・芸能家・科学者・教育者ほか、無数の技芸者や知識人が、無残にいたぶられた。芸術も伝統芸能も、中国から姿を消してしまうのではと懸念されさえした。が、中国の規模は日本人の規模感覚では推し量りがたい。紅衛兵による疾風怒濤の季節をいちおう脱すると、文人も画家も京劇役者も出てくるわでてくるわ、よくぞご無事でという様相を呈した。
 そんななかで、小澤征爾が北京のオーケストラを指揮し、そのリハーサル風景がテレビに映し出されたのである。演奏家たちは、詰襟の人民服を着ていた。

 演奏練習がひと区切りして、小澤から一同へのコメント。
 「よく解りました。この楽団の、もっとも悪いところは……」
 一同に緊張が走った。なにを云われるのか。なにせもう何年も、世界の音楽シーンに対して窓を閉してきたのだ。仲間には粛清されたものや、吊し上げられた後遺症で今なお復帰できずにいるものも、少なくない。今の自分たちの演奏が、世界的指揮者の期待を満たせるはずがないのだ。一同身構える心地となる。
 「もっとも悪いところは……楽器が悪い。もし外国に良いものがあれば、プライドなどかなぐり捨てて、積極的に摂り入れるべきだ。毛沢東先生も、そうおっしゃってる」
 一瞬にして一同が笑顔になった。拍手も起きた。チェリストは弦をスタッカートで鳴らした。
 凄い指導者だなあと、この時も私は感服した。楽団員たちは、さぞや救われた想いだったろう。音楽の芯と対峙することは、目前の巧拙を取沙汰するのとは、まったく別のことだったのだろう。

 数多あるらしい小澤征爾の音楽的業績については、ほとんど知らない。彼を映し出したドキュメンタリー作品のいずれも、それぞれ一度観たきりで再見の機会を得なかった。
 たった一度観たきりの小澤征爾の姿と表情と発言とから、また彼を半生にわたって映し続けた萩元晴彦の諸作品から、私は多くを学んだと思っている。