一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

辛い必要



 陽射しの穏やかな、無風の午前中だった。

 冷えこみの厳しい明けがた、普通なら毛布を被って寝ちまおうと考えるところだ。ところが今日は買物および用足しが三つ以上溜っている。私鉄で池袋まで出る値打ちがある。今から床に就くと、確実に寝過ごす。このまま起きていよう。ユーチューブで東京マラソンのフル動画を観戦することにした。

 まずは信用金庫の ATM にて、必要な金を引出す。郵便局の作業デスクにて、昨夜用意した仏前袋に必要額を封入。窓口で現金書留封筒を買う。二百十円。作業デスクに戻って宛名書き。封入。窓口へ。六百八円。近く縁戚にご法事がある。列席すべきところながら、お子たちもお孫たちも揃っているご家庭で、できれば内うちでしめやかに済ませたいとのご意向だ。ここはご遠慮申すべきだろう。


 ところで局前のポストに、レターパックが載っていた。だいぶ厚みがある。投入口に入らず、この状態から回収してほしいと、どなたかが置いたのだろうか。危ないことをする人もあるもんだ。「ポストの上にパックが出てますけど」と窓口の局員さんに報せてみた。「はい、承知してます」との返事だった。
 作業デスクで宛名書きしているあいだに、入局してきた奥さんたち二名が「あれ大丈夫なの」と次つぎ局員に訊ねた。
 「やっぱり気になるかしらねえ」「そりゃそうだろう」なんぞと男女の局員さん同士で談笑している。かすかな違和感がふたつあった。
 第一。だれだって異様に感じて、局員さんにご注進いたす気になるのが普通だろうに。ポストの投入口に入らぬようなら、窓口受付けで預かっておいたらよかろうに。第二。レターパックにはたしか、厚み制限があったはずだ。いつだったか雑誌二冊を封入してポスト投函したら、厚みオーバーのシールが貼られて返送されてきたことがあった。ポスト投入口に入らぬ厚みのものが、回収されるものだろうか。つまり合法なのだろうか。
 しかしまあ、私の出る幕ではない。性善説が通用しない時代なんだがなあと、首を傾げる想いで郵便局をあとにした。なにせ今日は多用なのだ。

 池袋駅の地下改札から出てすぐのところに、つまり百貨店の地下一階に、日比谷花壇の出店がある。花を贈る場合には、毎度利用している。
 金に不自由なお宅ではない。ご法事だとて、年金生活者の貧乏人が仏前袋を厚くしたんでは分不相応だ。袋と花との分散手配に限る。仏前へのお供えとはいっても、菊尽しでは陰気に過ぎる。白の洋花組合せだ。交際の広いお宅だから、あっちからもこっちからも花が届くことだろう。いかに豊かなお宅だとて、花瓶が足りなくなることだってあるかもしれない。花束ではなく、フラワーアレンジメントとする。

 エスカレーターで昇る。百貨店の階上に、文房堂の出店がある。イルカの文鎮を買った。日ごろお世話になっているかたへの、軽いお礼のつもりだ。
 壁には本店の、有名な煉瓦造りの入口の写真が掲げられてある。
 「こちらさまは駿河台下の文房堂さんですよね。昔は本店さんにずいぶんお世話になったもんです」
 眼鏡の女店員さんは無言だった。当方のなりが見すぼらし過ぎたのだろうか。お爺ちゃん、アンタなんかがウチの本店のご定連のわけがないでしょ、と思われてしまったろうか。無理もない。お嬢さん、あなたがお生れになるよりも前の噺ですから。


 ドン・キホーテに寄る。キッチン用品は二階だ。フライパンや雪平鍋や、包丁や調理用ハサミなどを、ひととおり眺める。じつに安い。視るからに頼りない。長く付合う気にはなれない。むろん初めから買う気はなかった。目当ては計量秤だ。
 使い慣れた秤が壊れてから、なん年にもなる。上皿を秤とを繋ぐ柄が折れた。母の時代からの道具だから、寿命に不足はなかった。頻繁に使う道具でもないから、補充もせずに胡麻化してきた。
 不自由するといえば、麺類の大束から必要量を小分けするときくらいだ。だがあればもっと使うような気もする。買ってみてもいいかな、という気になっていたのである。

 面喰った。置時計のような顔に円形の目盛りが刻んであって、上皿に物を載せると長針が回転する、バネ仕掛けの、つまりはレトロ型目覚し時計の親方みたいなもんが念頭にあったのだ。実際に売られていたのは平べったい機械で、乾電池式のデジタル液晶表示だった。思えば当然だ。体重計だって血圧測定器だって、こんな感じだ。
 バネ仕掛けのアナログ秤もあるのだろうかと、しばしキョロキョロしてみたが、さようなもんは取扱っていないようだった。べつに乾電池代が惜しいわけじゃない。買った。またひとつ、わが台所の技術革新だ。


 さて目論んだ買物は一段落した。かつてであれば、ここからジュンク堂三省堂となったわけだが、また余計な目移りがして要らぬ買物をしてもならぬので、一目散に帰宅の途に。とは思うものの、せっかく外出してきたのだから、街の埃を吸っておくのも大切かと思い直した。めっけもの拾いものの目撃をすることだって、ありえぬでもない。
 タカセサロンでは、ミックスピザパンとした。気に入りの餡ドーナツを、今日は早ばやと捨てた。心惹かれるラムレーズンも捨てた。ピリ辛ピザとミックスピザとで、だいぶ迷った。パン売場を三往復した。アイス珈琲の季節ならピリ辛を選んことだろうが、今は辛い必要が見つからない。
 こんなに陽射しの好い、用足しをいくつも済ませた午前は、なにも辛い必要などない。本日正午時点での結論である。