一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

植物の体温



 雨から雪になったのは、深夜を過ぎてからだった。

 銭湯へは、閉じたままのビニール傘を携えて出かけた。日を跨ぐころから、雨または雪と、天気予報から脅かされていたからだ。予報だもの、二時間くらい前倒しになったからとて、文句は云えない。往きは好いよい帰りは湯冷め、とでもなっては情けない。が、傘の出番はなかった。
 机に向っていると、庇を打つ雨音が聞えてくる。予報は当って、深夜に雨が降り始めた。この雨音が消えて、シーンと静寂になったら雪である。
 午前二時を回っても、雨だった。今回はこのまま雨に終始してくれるだろうか。胸を撫でおろす心地がした。東京二十三区内にも五センチの積雪が見込まれると、予報が告げていたから、雪掻きの覚悟もしていたのだった。
 午前四時を回って、みぞれ模様となり、観るみるうちに雪に変った。やはり雪掻きか、ヨシッという思いで、目覚し時計をつねの半分の睡眠時間にセットして床に就いた。


 積雪はたいしたことなかった。雨が降り続いていた。

 カボチャを炊くさいには、鍋底にうっすらと砂糖を敷いてから、カットしたカボチャを隙間なく並べ詰めるのだが、砂糖をどのていど敷いたらよろしいか。例によりいい加減ではあるものの、目処としては「朝起きて、あぁ昨夜あれから雪になったんだ、どうりで静かだと思ったよ、という雪くらい」と説明してきた。今朝は逆だ。ちょうどカボチャを炊くときの砂糖加減ほどに、雪が残っていた。

 箱型郵便受けの小さな屋根の上や、門柱の冠となった雪は厚い。土の上の雪は薄く、まばらで、水分を吸収する土の力の猛烈さが一目瞭然だ。
 それよりなにより、植物たちの葉上の雪は、消えかかっている。ことにブロック塀の土台ぎわには、か弱そうな三つ葉の草ぐさが列をなしてあるのだが、雪を被った形跡など認められないほどだ。
 土の吸水力と云っただけでは片づかない。呼吸か光合成かは知らないが、葉の表面にかすかな蒸散力があって、出入りする気体が雪解けを速めているのだろうか。それとも植物自身の体温によって、固体上に積った雪よりも、さらに土を覆った雪よりも、雪解けを促進しているのだろうか。

 「植物の体温」との考えかたを、産まれて初めてしたような気がする。わが文章に用いた前例のない言葉である。なんだか気に入った。わが用語辞書に新登録しておく。