一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

ぬかりなく



 花芽葉芽ぬかることなく時うつり 寒いさむいは老骨ばかり

 低気圧による雨模様と強風。自分がこれほど風を苦手にしていたとは、この齢になって初めて知った。元気が削がれる。外出意欲が萎える。
 珍しく二日連続に用件が重なって、それらが過ぎたのだから、棚上げしていた懸案事項にすぐさま取りかからねばならぬ。とは思えども、気力充実せずに、台所かコインランドリーしか思い浮ばない。大切なお礼状もご挨拶状も溜っているし、いち早く片づけねばならぬ宅内掃除も後回しのままだ。

 当はてなブログには、「こよみモード」というバナーがあって、一年前・二年前の今日、自分がどんな日記を書いたかをワンクリックで覗ける仕組みとなってある。日ごろは一度書いてしまったものを読返したりはせぬ気性だが、気の迷いとでも申そうか、気弱に陥った日などには、つい覗いてしまうことがある。たいていの場合は、後悔する。
 似たようなことが書いてあって、変化も進歩もない。拙宅敷地内で唯一、私より高齢の老桜樹が、もうこれで最後かと思ったに今年も花芽を膨らませてきたなんぞと、ご丁寧に枝先の写真付きで掲げてあったりする。やれやれ。しかたなく今年もシャッターを押した。


 こちらはここ近年のニュースターである。が、注目されるのは秋ばかり。それ以外の季節は、他の雑草類の繁茂に身を没するようにして生き延びてきた。彼岸花(曼殊沙華)、それも珍しいとされる白花種である。
 どんな奴だか、一度正体を観てやれという気がある時起きて、周辺の草ぐさを丹念に退治して、当人だけを残してみた。地中にシンジケートを張りめぐらせたドクダミをはじめ、地表を覆うユキノシタイヌタデや、丈を伸ばして目立ちたがるムラサキゴテンやシダ類や、さらにはそれらすべてに襲いかかって全表面の独占を企てるヤブガラシなどと、季節ごとの敵正面として対峙してきた。

 その成果あって周辺はかなり見通し好くなって、植物としての彼岸花の姿がくっきりと見えてきた。いくぶんかは正体も見えてきた。人間は花の姿に騙されている。翻弄されている。小ざっぱり、可憐、気品、高貴、花の姿からどんな言葉を連想するのもご勝手だが、植物としての彼らは、そんなヤワな連中ではない。秋だけでは、彼岸花は見えてこない。
 劣悪な土壌にも根付き、葉の大半が損傷を受けても絶命せず、繁殖力も強い。球根には毒があるから、地中動物からの攻撃にたいしても防衛力がある。最近ようやく緩やかになってきたようだが、冬から初春にかけての伸長力には目覚ましいものがあった。

 周辺に競争相手がなくなった彼らは、拙宅敷地内にあって今、他種の追随を許さぬ独走状態で、生命力を見せつけている。匂うがごとくとは、こういうことだ。
 今年は例年にも増して、花芽を用意するだろうか。それとも逆に、競争相手がなくなり張合いを失って、生命存続の危機感が去った悦びにかまけて、花を用意しないなどということになるのだろうか。
 十月にでもなれば、彼らの存念が知れる。さて、それまで当方の正常な観察力・判断力が維持できるかどうか、という問題になってきた。