一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

また逢う日まで

 

 陽射しの好い日には、陽だまりを選っては三十分ほど、煙草を吸ったり缶珈琲を飲んだりして過すことがある。肌脱ぎになるわけではないから、日光浴とまでは称べないけれども、顔や首筋手足だけでも、ビタミンD の生成に役立たぬもんだろうか。

 陽射しが好くても、風が冷たいと、草むしりをする気になれなかった。ようやく今日、風がやんだ。まずはごく眼先の、容易な処からだ。玄関前から西寄り塀ぎわの、伏せたブロックに漬物石が載せてある、ふた坪ほどの区域だ。
 かつて頑強に処を占めていたネズミモチを伐り倒した。切株から盛んにヒコバエを出してきたから、伸びたら摘みのいたちごっこが何年か続いた。一念発起の一昨年、建屋方向に伸びた一番と、塀沿いに進む二番と、太い根を二本遮断した。好い按配に、ヒコバエを出さなくなった。
 太根を掘り出した跡が、細長い穴となった。お若い友人の元村君がご郷里にお手配してお贈りくださった、夕張メロンの皮や種子やワタを埋めた。発酵力抜群につき土に還るのも早かろうと予想し、かなり大量の枯枝枯草をぎゅう詰めにして、土を被せてマウンド状に盛上げたところへ、ブロックと漬物石を重しに置いた。


 一年半あまり経った。ブロックは半身が地中に没したようになってある。あたりを覆う主役は、米粒ほどの小さな紫色の花をまさに咲かせている草ぐさだ。咲き始めてしばらく経つから、最低限の子孫確保は済んだだろう。だいいち私の粗雑な草むしりでは、絶滅の危険などあるはずもない。
 わが草むしりの要諦は、小まめに粗っぽく、である。メーテルリンク『青い鳥』からもマルシャーク『森は生きている』からも、さように教わった気がしている。

  
 ブロックをどけてみると、窪みの底には、陽光を完全遮断された地表に黴と見紛うほど情ない細根が隈なく密生している。今から陽を浴びさせようが水を与えようがどうなる気遣いもない、瀕死の屑根だ。スコップで掘り返すうちに、土に紛れ込んで消えてしまった。
 サクサクとスコップが苦もなく入る良質な土となっている。枯葉はおろか、かなりの量を混ぜたはずの小枝類も見事に姿を消している。むろんメロンの皮など、それらしい土の塊すら発見できない。幅二十センチ長さ五十センチ、深さ十五センチの穴はあっという間に掘れた。

 門柱脇の車寄せの隅に吹き溜っていた枯葉を塵取りで集めてきて、放り込む。昨年末以来続いてきた落葉の、これが最後となろう。如雨露で水をかけてやる。冷蔵庫から古いほうの生ゴミ袋を取出してきて、枯葉の上にぶちまける。人参とじゃが芋の剥き皮、それにカボチャの種子とワタである。昨年は別の場所でカボチャが芽吹き出してしまい、初めての経験に面喰ったが、今年はよもやそんなこともあるまい。
 少々の土をかけ、スコップの先で突いて、馴染ませてやる。地中細菌が少しでも早く行き渡るようにだ。枯草山から乾燥十分な枝葉をふた抱えも運んだ。手で揉んだり小枝は折ったりしながら、穴に詰込む。最後に土をかけたときにマウンド状に盛上るほどの量を、ぎっしり詰込む必要がある。
 土で覆ったら、もう一度如雨露でたっぷり水を補給して、今回もブロックと漬物石とを置いた。次にこの石をどけるころには、どうなっているのだろうか。土がではなく、私がだ。
 作業時間は正味五十分。本日の顔面・首筋日光浴は終了である。