一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

初めから

 

 初めからそうすりゃあいいものを。マイナスからのスタートということか。

 いつの日か再挑戦を、なんぞと考えていると、すぐやってみたくなる。一昨日の野菜揚げの件だ。
 キャベツを千切りにして掻揚げふうにするのは無謀だ。少なくとも私の腕では無理である。だったらロールキャベツ方式ではいかがか。さっと湯掻いたキャベツを巻くとしても、私の腕ではねえ。芯があればなんとかなるかも。
 ウインナを縦半分に断ち切る。熱による反りかえりを怖れて、皮側に三か所、包丁を入れた。湯掻きキャベツで巻き包み、爪楊枝で止めれば、見てくれだけは、ひとくちロールキャベツに見えなくもない程度にはなった。さてこれで果して、衣が着くものか、無難に揚るものか、まったく想像が及ばない。

 衣の濃さも、具に絡める厚みも、当てずっぽうだ。油の温度も揚げ加減も当てずっぽうである。
 ともかく揚るだけは揚った。摘み食いしてみる。感動はない。ウインナと茹でキャベツの味である。ウインナが強過ぎる。この手を使うのであれば、四半分に断ち切るべきだった。なにか下味を付けるべきかもしれない。塩気か辛味か、それとも具の工夫か。
 しかし具に挽肉だの玉ねぎだのを使えば、それすなわちロールキャベツそのものではないか。釈然としない。
 ともあれ、これを野菜天と称んだのでは、いくらなんでもバチが当ろうという揚げ物ができた。べつだん不味くもないから、完食したけれども。

 
 玉ねぎであれば、油鍋のなかで寄せるのも均等にならすのも容易だ。その扱いやすさにかまけて、工夫を怠ってきた。美味けりゃいいのだとばかりに。ところが人参となると、そう容易ではない。油のなかでいったんわがままを始めちまったら、手に負えぬ頑固さがある。こんなときこそ、アレを登場させてみた。

 柔軟な合金を輪にしただけの円筒形の道具で、たしかセルクル(輪っか)という、拍子抜けするような名の調理器具だ。手製のパンを焼いたり、ケーキを造ったりするかたがたが用いる道具だろう。俺には無用だと手に取ってみることすらなかったのだが、あるときダイソーでの細ごました買物のさいに、もうひと品でちょうと切りの好い代金になるのだが、という場合があって、ふと気紛れを起して手籠に放りこんだのだった。
 案の定、私の台所では、めったに出番も廻ってこなかった。しかし今日こそ出番である。暴れようとする人参を、これで抑えこんでやるのだ。
 効果てきめんだった。が、今度は揚り具合が想像できない。具材の外縁から出る泡の加減を看ることができぬからだ。低音油でじっくりと、なんぞと考えているものだから、どうしても揚げ過ぎになりがちだ。


 一昨日の野菜揚げ定食の改良版は、とにもかくにも成った。しかしここで私は、暗然たる想いに捉われた。
 今日の工夫ごときは、手出しする前に少し考えを巡らせてみれば、想い至れぬではない問題ばかりではないか。人並の思慮をお持ちのかたであれば、容易に想像できたことだろう。やってみて気づいたというのでは、いかにも愚鈍の誹りは免れまい。
 つまり本日が真のスタートラインなのだろう。闇雲の無手勝流でマイナススタートを切り、まずやってみなければスタートラインすら判らぬこのやりかたは、まさしくわが宿痾にちがいない。
 勉強も仕事も、自分はそのようにしかやってこなかったと、改めて想う。食後の台所でインスタント珈琲をすすりながら、今さら落込んでみても始まらぬことではあるけれども。