一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

野菜の顔色



 久しぶりの揚げびたしである。

 とにかく野菜を食ってさえいればという老人食の日々だが、昨秋からはカレー味・デミグラス味・ホワイトソース味の循環だった。そろそろ退屈してきた。夏場は日保ちの心配から、煮物保存食を避ける気も湧くから、揚げびたしは半年以上ぶりだ。低温油でじっくり素揚げした具材を、酢の利いた漬け汁にひと晩ひたし置くだけの簡単料理だ。
 手がけ始めた時分は定番どおり、青魚を配した。鯵も鰯も秋刀魚も使った。粉をまぶしてじっくり揚げるから骨まで食べられると、悦に入っていた。が、下ごしらえに手間がかかるし、失敗の頻度も高まる。大好物ではあるが、毎回でなくてもよろしいかとの怠け心が湧いた。
 鶏肉で代用してみた。腿肉も胸肉も笹身も試した。高タンパク低カロリーなんぞと、悦に入っていた。が、動物性タンパク質を美味しく摂る途は他にもあると思えた。仕上りの味も食感も、魚が上と思えてならなかった。

 バランスの贅沢を云わぬなら、野菜だけでもいいじゃないかとの段階に入った。取合せの必須は蓮根だったが、やがて歯がなくなるにおよび、食べにくくなった。次に必須は長葱だったが、束で買ってきた長葱の残余を使い切れずに無駄にしてしまった事例が発生し、気が差すようになった。初期から現在まで出張り続けているのは、椎茸と人参のみである。
 カボチャは美味かったが、他に美味い食いかたがあるので、こだわる筋合いでもなかった。じゃが芋は火の通し加減に気を使う割には、味に驚きが視られなかった。同じくゴボウも成功とは申し難かった。
 茄子とピーマンは、いずれもクタクタに柔らかくなる具材で味も好く、老人食には申し分なかった。だが揚げびたしアンサンブルのなかで果す役どころは同じだから、いずれか一方で足りた。
 野菜以外では、昆布も若布も試してみたが、姿をまとめるのに面倒な割には、食べてしまうとあまりに呆気なかった。

 台所に入るとまず、漬け汁造りだ。出汁に酒と砂糖(味醂を使わないので)、擂りおろし生姜を加えて、煮立ったら醤油を差す。ここでいったん味見する。拙宅には計量カップこそあるものの、計量スプーンなどない。いつも適当エイヤッだから、修正するならこの段階しかない。
 味を決めたら軽く煮立てて酢を差し、もう一度味見だ。必ずといってよいほど、むせて咳が出る。これを冷ますあいだに、今日の食事のための炊事に入る。炊事から食事および食後の一服までの時間は、漬け汁を冷ます時間としてちょうどよろしい。

 野菜にはそれぞれ個別の機嫌がある。産地によるのか品種によるのか、はたまた気候や作物としての出来によるのか、専門家には一目瞭然らしいが、私にはかいもく判らない。包丁を入れたとき、オヤッと思うことはある。だからといって切れ目や寸法をいかに手加減すべきか、油の温度や揚げ加減をいかに調整すべきか、考えつけるはずもない。揚げながらまた、オヤッと思うだけのことである。
 食べる段になって、またオヤッと思い、ヤッパリカァと思う。思うだけで反省などはしない。元の原理が解ってないから、次からはどうしようとの改良案など出てくるはずがないのだ。せいぜいがところ、野菜の顔色を窺いながら、機嫌を損ねぬように用心して煮炊きし、食べるだけのことである。

 目論見ばかり大仰で、大口叩いて物真似に懸命だったころがあった。さすがに今は違う。久しぶりに茄子が食いてえなぁ、ふいに思ったもんだから、最低限の相棒にだけ登場してもらった。見映え冴えなくとも、私にはこれで十分だ。
 思い当る。この素材はせいぜいそこまでですよ、その途にはあんがい先がありませんよといくら云われても、なかなか納得できるものではない。やってみて、さようであったかと思い知るほかはない。
 冷蔵庫でひと晩眠らせる料理だから、今日これから、今回の野菜たちの機嫌が判明する。