一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

漂泊ふたたび

 

 今さらこの足に、草鞋が履けるとも思わぬけれども。

 テレビ時代劇『鬼平犯科帳』のどの回だったかに、兇賊の手にかかった被害者の墓前に参る場面があった。事件はつい先だってのことで、墓はまだ真新しい素木の一本柱だった。墓柱背面の墨書に、たしか「寛政二年」とあった。松平定信主導による「寛政の改革」が始まろうとする時代である。
 ちなみに同じ池波正太郎ワールド『剣客商売』では、田沼意次が権勢を振るっているところを観ると、舞台はひとつ前の時代だ。おそらく秋山小兵衛は長谷川平蔵より二十年ほど前の人だ。地震や火山噴火をはじめ天変地異が重なり、飢饉の年が続いた。打ちこわしや百姓一揆も頻発した。田沼意次は庶民に倹約を励行させ、違反者には厳罰をもって対処した。その施政を敷く方策として豪商富農の力を利用したから、民間の貧富の差はますます増大した。賄賂袖の下が横行し、気脈を通じて暗躍する者も増え、市中には食詰め浪人や出身地不明の無頼漢も闊歩した。
 さればこそ正統剣法の免許皆伝にして、人物鑑定にも経験豊富な秋山小兵衛のような人物に、隠居の身にもかかわらず、よろず出番が多かった……というのが『剣客商売』の建付けである。

 厄払いの改元を経たからとて、世情不安や貧富の差が解消するはずもない。金は有る処には有る。というか、有る処にしかない。働いても辛抱努力しても、どうせ報われぬ人生ならば、有る処から持出すほかはないと、悪知恵はたらく者たちや度胸ある者たちは考えた……というのが『鬼平犯科帳』の建付けである。
 現実社会の荒廃を視野に置きながらも、正統的な理念・美意識が完全に廃れきったわけではないと謳いあげたのが、池波正太郎ワールドだったと云っていい。

 『木枯し紋次郎』のナレーションによれば、物語は天保年間とされてある。特徴ある小判型の天保銭を紋次郎が支払う場面もあった。
 丸銭より大型かつ厚手で見映えがするようでも粗悪な貨幣で、しかも量産された。今日の古銭コレクターのあいだでも、いっこうに取引価値の挙らぬ貨幣だ。わが幼少期にはまだ、どの村にもひとりふたりはいた知的障害ある少年にたいして「アイツは天保銭だから」というような表現が残っていた。
 紋次郎は鬼平よりも、四十歳ほど齢下のはずだ。主として北関東・甲信から中山道沿い、例外的に房総あたりを歩いているが、宿場町でも養蚕業の集散地でも、風景といい人情といい、カラカラに乾いてすさみ切った情景は凄まじいばかりで、鬼平から四十年後にはこうなったかと考えさせられる。
 「江戸には好い想い出がござんせんで、足を向けねえようにしておりやす」
 誘われても江戸へ入るのを渋っていた紋次郎だが、抜き差しならぬ行掛りで江戸に入った回が、一話だけある。笹沢左保ワールドは池波正太郎ワールドではないと、申してしまえば身も蓋もないが、紋次郎が歩いた江戸の町並は、鬼平が眼を光らせた江戸とはおおいに異なった風景だった。

 『鬼平犯科帳』では、いたるところで好い匂いがした。酒と料理に始まって、男と女、町並と風景、そして働く庶民の姿にも匂いがあった。『木枯し紋次郎』では、匂いが押し殺され消去されてある。匂いといえば汗と血と、あとは風に舞う土埃の香のみだ。いつでもどこでも、無情な強風が吹いている。
 「せっかくですが、あっしには関わりのねえこってござんす。ごめんなすって」
 紋次郎はつねに、風のなかを歩く。
 放送された1970年代前半は、若者が「関係」に疲れていた時期だった。沖縄の実状は、君と無関係ではありえない。無関係だとしていられるのは、君が無自覚だからだ。勉強が足りないからだ。ベトナムで進行する戦争は、中国の文化大革命の進捗状況は、プラハで起きていることは、テルアビブ空港で起きたことは、どれもこれも君とは無関係ではありえない……。脅迫にも似た圧力だった。積極的に取組んだ若者も多かったが、辟易して逃げ出したかった若者も多かったことだろう。
 風、放浪、漂泊などの語は、一部の若者のあいだで憧れのイメージを伴うキーワードにまでなった。イメージを美しく、もの悲しく描き出してくれる美男の若手作家五木寛之は、象徴的アイコンといった存在だった。社会の仕組からドロップアウトした木枯し紋次郎は、脱落者などではなく、一部の若者にとっては理想的生きかたの達人とすら見えていた。
 定住者より無宿漂泊者に人気があった。親から引継いだ小さな食堂を、いじめられようが蔑まれようが歯を食いしばって護り抜くなんぞという人間像は、時代劇でもミステリーでも、ほんの端役にしかならなかった。やがて漂泊者たちが栄光の座から引きずり降ろされて、あまつさえ「負け組」なんぞとレッテルを貼られる時代がやって来るまでには、十年以上かかった。

 『俺は用心棒』を皮切りに用心棒シリーズが続き『天を斬る』にとどめを刺す、一連の用心棒キャラクターは、先んずる『新選組血風録』とあい俟って、栗塚旭という新スターを世に送り出した。
 時は安政年間。幕末である。紋次郎から、さらに二十年が経っている。なん年か前すでに、ペリーの黒船が来航していた。国論は四分五裂して、物情騒然たる乱世になろうとしている。風に舞う土埃ていどではない。強風烈風、それ以上の嵐である。

 権威の保持を企てる者があれば、理想主義に熱を上げる若者もある。理想を掲げる勤王の志士を装って、無遠慮に放歌大笑するだけの、落ちこぼれ食詰め浪人も後を絶たない。正面切っての治安維持では憚り多い闇案件を処理すべく、江戸と京都の奉行所からもっとも腕の立つ三人を選抜して、特務機関を形成した……というのが『天を斬る』の建付けである。『相棒』の「特命係」のはるかご先祖さまだ。
 飄々たる物腰にして医術の心得もある知恵者で、強いんだか弱いんだか判らぬようでいながら、じつはめっぽう強い左右田一平。理路整然とした正義漢で、苦労知らずの秀才青年かに見えて、じつは剣法の腕前抜群の島田順司。それに来歴に謎の多いリーダー格の栗塚旭の三人組である。
 いずれも1960年代後半放送のドラマだ。大学紛争の火の手が飛び火するように全国に拡がり、高校生からさえも狼煙が上ってきた時期だった。社会人の多くは冷静な眼差しで遠巻きにしていたことだろうが、かといって静かでもいられない時代だった。

 シリーズ全作において、左右田一平がエンディング・ナレーションも担当している。
 「その後この女がどこでどう暮したものかは、だれも知らない」
 「親子のその後について、知る者はない」
 「この男がどこからやって来たものか、知る人はない」
 烈風に巻込まれてきりきり舞いさせられたあげくに、風の彼方へとからくも姿を消していった人たちへの、ささやかな鎮魂、もしくははなむけである。
 『剣客商売』よりも『鬼平犯科帳』において、それよりも『木枯し紋次郎』において、さらにそれよりも『天を斬る』において、風はいっそう強まっている。そして茶の間向けの娯楽時代劇だとはいえ、あなどることはできない。現代もまた、急速に風が強まってきた時代とも感じられる。
 惜しむらくは、もう一度漂泊して見せる気力も体力も、私には残っていない。