一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

轍を踏む

 

 実験工房での結果だから、失敗はつきものだ……と、自分に云いきかせる。

 人参を揚げる。玉ねぎとはまた違った、独特の甘みが出るはずである。
 昔、試みた記憶がある。が、具の刻み加減も、粉加減も、まったく憶えていない。玉ねぎよりは火が通りにくいはずだ、たぶん。玉ねぎよりも油が汚れるはずだ、たぶん。とはいえ識見がないのだから、ともかく玉ねぎ天と同じ手順で、似たような分量で、やってみる。
 油のなかで、思うようにまとまらない。火が通らないかと懸念して、じっくり低温でと心がけ過ぎたのが裏目に出たか。網杓文字でかろうじて裏返した。
 揚げむらが生じるのが怖いのと、油っぽくなるのを防ぎたいのとで、油を高温に上げてもう一度、短時間づつ表に返し、裏に返した。

 キャベツを揚げる。過去に経験がない。こんな水っぽい野菜を揚げられるものだろうか。いや、味と適度の水分とを閉じ込めるための衣ではないか。それが天ぷらではないか……。事前に理論的葛藤しばし。とにかく実験あるのみと、決断する。
 案の定、油の中で具は散りぢりに分散遊泳してゆく。菜箸で寄せるが、また散ってゆく。セルクルで形を限定してやればよかった。知恵は後から出てくる。
 菜箸を用いて網杓文字に集め、どうにか裏返す。水溶き粉を菜箸の先に着けてたらりたらりと垂らして、なんとか形にしようと図る。効果些少。
 こんなことならいっそのこと、ツナギを工夫して塊にしてしまい、ハンバーグのようにしてしまったほうが始末に好かったかもしれない。知恵は後から出てくる。


 ともあれ、無残なる揚げ物定食の完成だ。
 人参天の外縁部はサクサクをはるかに通り越して、カリカリだ。短時間高温仕上げの効果が出過ぎた。人参の揚煎餅である。人参チップスとも云える。その食感を得て、突然思い出した。昔も人参を揚げて、同じ感想を抱いたことがあった。習性恐るべし。経験化されて知恵となっていなければ、人は同じ轍を踏むのである。
 それでも中央へ向うにつれて、目論見どおりの甘みが発揮された。玉ねぎの甘みは平民的だが、人参の甘みはどことなく貴族的だ。

 キャベツ天も食って不味くはないのだが、キャベツ独特の味とは云えない。具を小さく刻み過ぎたのだ。もっと大まかに切って、生っぽく揚げねばならない。
 とはいえ問題は主として外観・形状・歯応えなどにあって、どちらも食うぶんには美味い。それは具自身の手柄だろうと云われれば、そうかもしれない。天つゆの手柄だろうと云われれば、返す一言もない。
 それもこれも含めて、かならずリベンジしようと、心に誓った。