一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

みんなどこから



 みんな、どこからやって来たのだろう。次の宛てはあるのかしらん。


 耄碌してみて、自分がこれほど寒がりだったと、初めて知った。ラジオでは陽射しの好い日ですなどと云ってても、風が冷たいと草むしりする気が失せてしまう。わずかでも雨が降っていようものなら、出歩く気が削がれてしまう。身の引締るような、ぴりりとした寒さ、なんぞという快感は、もう感じることができぬまま生涯を了えるのだろうか。
 寒さに弱くなったからには、暑さにたいしても弱くなっていることだろう。梅雨を迎えるころにはきっと、蒸し暑くて作業に向う気が削がれるなんぞと、云いだすにちがいない。ということは気分充実した春から初夏までと秋とが、まことに短いということだ。一年また一年と、片づけ仕事にも手が回らなくなってゆくということだ。かような体たらくで、世に云う終活や断捨離など満足にできるもんだろうか。はなはだ心細き限りだ。

 植物たちの生存・繁殖意欲は正直で正確だ。どうしたいのかが、はっきり判る。彼にとって今なにが障害となっているかが、じつに明確だ。それを解消してやると、待ってましたとばかりに羽を伸ばしてくる。反応があまりに正直過ぎて、憎たらしくなることすらある。少しは加減したらどうだい。ものごとを遠慮がちに運ぶことも、考えてみちゃどうだいと、声を掛けたくなる。

   
 背丈のある連中がはびこり出してからでは手遅れだとばかりに、小さな花ばながいろいろ咲いている。タンポポの種類には無知だが、仲間と思われる奴が最大の花で、他はどれも人間の眼からは花と見えない、もしくは視逃されてしまう花たちだ。
 かつてこの一帯はドクダミとシダ類との占有地域だった。数年かけて、勢力を格段に削いだ。今年もこれからはびこってはくるだろうが、全盛期に比べればものの数ではない。そうなったからこそ、小さな花ばなが己を目立たせることができるようになった。

 それにしてもこの連中は、わずかな隙を目ざとく視つけて、いったいどこからやって来るもんだろうか。感心し、驚嘆すらする。だが掟は守られねばならない。私からすれば、相手が替っただけで、やがていつかは草むしりの対象となる点には変りない。
 しかしいささか情が湧き、草むしりの意欲が鈍る。なにせきわめてけな気に咲く、あまりに小さな花たちなのである。