一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

疫病禍明け



 拙者としたことが、とんだご無礼を。ひらにひらに、サクラウジ。つい一昨日のこと、まだ一分咲きなどと申しましたが、わずか二夜明ければ三分咲きをも超える勢い。そこもとの俊足ぶりには、ほとほと感じ入ってござる。

 季節のせいだろうか。時局のせいだろうか。さらに巨きな時代のせいだろうか。このところ時計の進み具合が速くて、閉口する。ついて行けない。ついて行く気がないから私はまだ助かっているものの、世間の皆みなさまは、しんどくないのだろうか。
 今年はこのあと、二〇二四年問題だ選挙だ金融政策の大転換だ、オリンピックだ国際紛争の長期化だと、耳元を大音量で騒ぎ立てられているうちに、うかうかと過ぎていってしまいそうな予感がある。元日の大震災に始まって、いろいろな出来事があったようでいて、わが身一個に即してみればなんとも掴みどころのない一年だったという年になりそうな気がする。怖ろしい。


 かつてのように咲く気もなく、咲けもしないのは、私も老樹も同じだ。せめて分相応のささやかな仕事を一歩づつでも進めたいものと念じながらも、日々の雑事に取組むのが精一杯で、未処理案件が溜っていってしまう。
 老人にストレスは大敵だとの逃げ口上と、重要案件であってもすぐに忘れてしまう耄碌力とから、山積み案件は未処理のままに忘れられてゆき、結果として冒してはならぬご無礼を諸法にたいして冒してゆく。分別ある齢ならば、人間としてどうなんだと問い詰めるべき行為を、いつの間にか自分自身が次つぎと冒している。

 能力を発揮して立派な半生を築いたかたに「晩節を汚す」という局面が生じるのは、かような心理状態、かような気力・体力条件のもとで起きる事件なんだろうか。いわんや小人凡夫においてをや、である。


 拙宅に北接する児童公園には、往来に面した目立つ位置に八重桜がひと株立っている。公園の目印あるいは看板といった役どころだ。ソメイヨシノよりは開花時期がだいぶ遅い。ようやく花芽が膨らんできて、気の早い葉芽がほころんできたところだ。例年どおりのスロースターターぶりである。
 さらに北接する建物は豊島区の施設で、集会場だったり貸会議室だったり、老人福祉施設だったり健康相談所だったり、その他いろいろに使い回される建物だ。過去には区役所の出張所だった時代もあった。

 今年に入ってほどなくのころ、回覧板が回ってきた。この建物の大修復が始まるとのことだった。お役所名物の年度内着手というやつだろうか、先々週から入口が連続パネルの塀で囲まれたり、あたりに足場用の鉄パイプが積上げられたりし始めた。
 どのていどの工事規模になるのだろうか。まさか解体再建に近いほどの大修復ではあるまい。かといって外装の磨き清掃というには、準備が大袈裟だ。だいいち外装だけを較べれば、拙宅なんぞとは比べものにならぬほどきれいな建物だ。
 それにしても、と思う。拙宅の窓から施設の二階三階各部屋の広窓が望めるのだが、カーテンなりブラインドなりが開いて、なかでなんらかの活動がおこなわれている日はあまりない。つまり稼働率という点では、きわめて暇な建物だ。それを大修復だという。公共施設とはそうしたものなのだろうか。それともさような実状だからこそ、使い勝手のよろしいように修復して、稼働率を高めようとの目論見だろうか。いずれにせよ低所得住民からは、自治体って金持ちなんだなあとしか見えない。

 疫病禍が明けて、流行前の普請ブームが近隣に再来している。道路拡幅のための用地買収にまつわる当該地権者だけでなく、町の様相が変化したあとの時代を見越して、少しでも賢く立ちまわろうと企てる知恵者たちによる先手争いである。
 例によって私は、いかなる手も打たない。打つ気もない。