一朴洞日記

多岐祐介の老残妄言

なんとなく佳き日

 

 春先から今ごろまでに白花を着ける花木と云えば、近所にはハクモクレン、コブシ、ハナミズキ、タイサンボクなどの、かねがね眼を着けてきた株がある。だがそれらに較べるとややスター性に乏しいものの、私はヤマボウシの花が好きだ。
 といっても花と見える部分は、じつは葉の変化したもので、シベのような中央の小突起部分が花なのだそうだ。虫相手か人相手か、ずいぶん思い切った客寄せをしたものである。

 思惑どおりにゲン担ぎのメンチカツサンドほかを食べ、さて外出してみたら、駅前にふた株だけ立つヤマボウシの片方が、ほぼ満開だった。佳き日の外出に予祝歌を添えられたようで、気分を好くした。
 なにせ出不精の年寄りが、遠出するのだ。先夜は、じつに久かたぶりに新宿へ赴いた。旧い仲間二名との会食のためだ。散会後に社会勉強とセンチメンタル・ジャーニーとを兼ねて歌舞伎町そぞろ歩きを思い立ったのだったが、世相を賑わせるトー横にも大久保公園にも辿り着けなかった。ゴールデン街の古手生残りを三軒ほど歩いただけで、沈没してしまったのである。

 今日はもっと先まで行く。原宿で地下鉄千代田線に乗換えて、乃木坂駅まで。国立新美術館へ赴くつもりだ。いったいいくつくらいの、記憶ある風景と出逢えることだろうか。原宿駅では、明治神宮がわのお召し列車専用プラットホームが、まったく様変りしていた。駅舎の外観もまるで別物となってしまったと聴いている。
 急ぐ旅でもないから、いったん駅を離れて、明治神宮の大鳥居まで行ってみようか。釣り天井の体育館でも眺めてみようか。まさかプールで木原光知子さんが泳いでいたりはしなかろうけれども。南国酒家は健在だろうか。表参道を歩いてみたり、竹下通りを覗いてみたりもしようか。
 しかしなにもせずに、最短コースで地下鉄口をくだった。地下道が予想外に伸びていたり、意表を衝く場所にエレベーターが口を開けていたりして、面喰った。

 「千代田線かあ……」国立新美術館は堪能したものの、来た道をこのまま原宿へ戻るのは、どう考えても気が利かない。六本木も近い。赤坂界隈という手もある。だが街の姿を想い浮べると、もうひとつ歩く気になれない。しばし考えて、千代田線で今度は原宿とは反対方向へ。日比谷だの霞が関だの、地上へ揚って眼にするだろう風景を想像すると、今日の気分にそぐわない。むしろウンザリだ。「湯島かあ、湯島ねえ」なんぞと想いつつも、千駄木駅で下車した。

 
 ペチコートレーンに寄った。谷根千を観光散歩する外国人さんがふいに覗いたりもする、いかにも趣味の好いカフェだ。近隣在住のミュージシャンやら舞台制作者やら、美術デザイナーやらイラストレーターやら、愉快な連中が寄って来る穴場でもある。
 もうなん年前になるだろうか、二か月に一度の「ペチゼミ文学」と称して、文学案内のお喋りに出演させてもらっていた時期がある。たしか二年は続いたはずだ。録音もレジュメ原稿も残してないから、さてなにを喋ったんだったか記憶もまばらだが、なにせ客層が多彩だから、終演後のフリートークもたいそう愉しかった想い出がある。

 今日のシフトは鈴木さんだった。ご無沙汰の挨拶を交した。今も活発にバンド活動しているミュージシャンだ。肩まで伸びた髪を後頭部でひとつに束ねた、いわゆる男ポニーテールが、半分以上白い。ボブ・ディランジョン・レノンを、はて、なん十年唄ってこられたのだろうか。
 本日のケーキセットはアップルパイだという。当然注文した。この店でアップルパイと云ったら、ご近所のマミーズのパイに決ってる。丸ごとのリンゴを四半分にカットしただけではないかと見えるような、ゴロンゴロンしたリンゴが豪快に入っている。私にとっては東京一の大好物アップルパイである。

 で、次の散歩コースが閃いた。ペチコートレーンを失礼して、よみせ通りを歩いて、マミーズへ。週末であればたいてい売切れだが、週日なのが幸いした。
 ロールケーキもショートケーキも、カットでもよろしいが、アップルパイだけはホールで、というのが私のこだわりだ。
 右折して谷中銀座を抜けて、夕焼けだんだんを登って日暮里駅へ。大塚へと向う。アポ無しだから、お留守でも恨みっこなしと思い定めて、先刻観たばかりの『樹影』の画家を突撃訪問した。
 奥様はお留守だったが、ご本人が運好く在宅。ついさっき観てきたとお伝えし、あの横からの陽光は朝陽ではなく西陽に間違いないと、画家本人からの証言を得た。ご招待状のお礼までに、東京一と気に入っているアップルパイを手渡しすることができた。どこかそこいらで珈琲でもと引止められたが、残念ながら夕刻から予定があるため、また近いうちにと約束して辞去せざるをえなかった。

 久しぶりに美術館へ出かけた。懐かしい街を歩き、想い出の店に寄った。ご無沙汰に過した人に挨拶できた。夕方からは、文学雑誌『江古田文学』の年次総会だ。執行部諸兄の日ごろのご苦労が報告され、次年度の事業予定や予算について噺を伺う。その席でも、なん人ものご無沙汰だった人と再会することだろう。
 余人の眼からは取るにも足らぬ些事ばかりだろうが、少しづつではあるが、あれこれ済んでゆく気分もある。なんとなく佳き日だ。